満州の関東軍の戦績を調べたら、最強部隊といわれた水戸歩兵第2聯隊が関東軍から南方・中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用されていた。敗戦の前年・昭和19年3月のことであった。
五〇万といわれた関東軍だったが、他の精強部隊も多くが南方戦線に抽出されていて、補充のために内地から部隊が玄界灘を渡って行った。三十八歳の老兵だった私の父も、その一人。関東軍の戦力低下は覆い隠すべくもない。
ソ連軍の南下を阻止する水戸歩兵第2聯隊にとっても、北満の護りから米軍のペリリュー島上陸作戦に備える任務を与えられたのだから、最初は戸惑いもあったであろう。
玉砕した水戸歩兵第2聯隊の戦績について平成5年(1993)に「碑文」が建立された。またペリリュー島の「女性兵士」伝説も残されている。
<明治7年建軍以来、幾多の困難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第2聯隊は、大東亜戦争酣の昭和19年3月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、聯隊長中川州男大佐は、1万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
9月15日、4万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸用舟艇群を邀撃して大打撃を与えた。
爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつ、持久の任務を遂行したが、11月24日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し決別電報「サクラ・サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊撃戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武功は畏くも天聴に達し御嘉賞11回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、世界戦史に比類なき精強部隊の名を残した。
ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、50年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
平成5年(1993)11月24日 歩ニ会・ペリリュー島慰霊推進会>
■ペリリュー島の「女性兵士」伝説
ペリリュー島の激戦場で、うら若い女性兵士がアメリカ海兵隊員86名を倒したのち玉砕したという「伝説」もある。
彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。その時、彼女は機関銃を乱射して抵抗し、海兵隊の死傷者は86名を数えた。
ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意を引いている間に背後に迂回してやっと射殺したという。
この日本人女性は、南洋庁と第14師団司令部が所在したコロール島4丁目の一流料亭『鶴の家』の22~23歳の美人芸者「久松」ではないかという。
独立歩兵第346大隊長、引野通広予備役少佐(陸士26期・53歳)と恋仲となり、部隊がペリリュー島へ渡ると、髪を切り軍服をまとって同行したという。
ペリリュー島北部の「水戸山陣地」を守った約600人の引野隊(独歩346大隊)は9月末までに全滅した。
400人ばかりいた島民は既に5月頃、数人の慰安婦を含め全員がパラオ本島へ疎開していたので、米海兵隊と戦った女性は「久松」以外はありえないことになる。
元島民の証言によれば、「久松」の本名は梅田セツ。親に売られて島に来たという、コロールきっての美人の人気芸者。
身の回りのものを同輩に分け、理髪店で髪を切り、合う軍靴がなかったので地下足袋をはいて出陣したという。
機関銃で米兵を射ちまくり、本人は重傷のまま病院へ運ばれ、2週間後に息を引き取ったともいう。
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