■来年のNHK大河ドラマで“名誉回復”!?
権力欲に満ちた高慢な悪女-。豊臣秀吉の側室で、秀頼の母・淀殿(通称・淀君)には、そんな負のイメージが今もつきまとう。
400年前の大坂の陣で豊臣家が徳川家康に滅ぼされたのも、淀殿が家康の要求をかたくなに拒んだことが要因とする見方が依然根強い。
しかし、家康に近侍した儒学者・林羅山の『大坂冬陣記』には、大坂冬の陣の講和交渉で自ら人質となることも受け入れていた捨て身の姿勢が記されている。
これまで注目されてこなかった史料に着目する専門家は「いまこそイメージを見直す時期」と“名誉回復”を訴える。(川西健士郎)
■“悪女”伝説の由来
淀殿が“悪女”とされた要因は、関ケ原の戦いで勝利した家康との関係で形成されたとみられる。
勝利した家康は「征夷大将軍」となり、慶長10(1605)年、息子の秀忠に将軍職を譲る。このとき家康は、当時13歳の秀頼を二条城に上洛させ、賀詞を呈するよう促した。
これに対し、淀殿は「強いて求めるなら秀頼を殺して自害する」と言い放ち、断固拒んだとされる。
さらに、大坂の陣のきっかけとなった慶長19(1614)年7月の方広寺鐘銘事件でも、淀殿は家康に逆らった。
豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」とあることに対し、「家康を『安』の字で分断しており、不吉」と家康が難癖をつけ、交渉役の片桐且元は次のような難題を突き付けた。
大坂を国替えし、秀頼が大坂城を退去するか、人質として秀頼公を江戸に詰めさせるか、あるいは淀殿を江戸詰めにするか-。
「太閤様の築かれた大坂城を明け渡せとは何事ぞ。秀頼や妾(わらわ)を江戸に人質とは何事ぞ」。淀殿は激怒し、これを拒否したという。
こうした感情的な言動が、ヒステリックな女性というイメージにつながったとみられる。
■12月15日の出来事
こうして定着した淀殿の“悪女”イメージについて、「崩す史料がある」と大阪城天守閣の跡部信学芸員は語る。
それが、家康に近侍した儒学者・林羅山の『大坂冬陣記』(三重・神宮文庫)。大坂冬の陣の戦いが続いていた慶長19年12月15日の出来事として、こう記されている。
「母儀為人質、可遣江戸」。つまり、水面下で進められていた家康との交渉で、淀殿は人質として江戸へ下ることを同意していた、というのだ。
この11日前の12月4日、豊臣方は来年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった真田信繁(幸村)の「真田丸」の戦いで、徳川軍を散々に打ち破っている。
豊臣方にとって冬の陣は決して「負け戦」ではなかったが、淀殿は豊臣が徳川に従属することを受け入れていたことになる。
だが、淀殿も人質となるには条件を設けた。
林羅山はこう続ける。
「但諸牢人可扶持間、知行可有加増」。つまり淀殿は、雇い入れた牢人衆に知行を与えるため、禄高や領地などを増やす「加増」を要求した。
これに家康は激怒し、豊臣方の使者を追い返した。
家康が、国友、堺の二大鉄砲産地の鍛冶に作らせた全長3メートルの大火縄銃などの砲撃を炸裂させたのは、翌16日だった。弾丸は大坂城の御殿に命中。城内の婦女たちを混乱に陥れた。
表向きの講和交渉は18日に始まり、21日には両軍の和議が成立した。
■浮上する同情論
こうした一連の経緯について、跡部学芸員は「豊臣家をつぶそうと家康は必死だった。家康の無理難題に対し、むしろ淀殿は柔軟に対応したと考えてよいのでは。浪人のための知行要求も、徳川の上位と統治権を認めていたからこそ」と指摘する。
そして、“悪女”のイメージを定着させた、二条城上洛事件などでの淀殿の怒りについては「秀頼の安全を第一に考える淀殿からすれば当然だった」と同情。
鐘銘事件で人質になることを拒んだのは、「大坂を放棄することを勝手に提案した且元への不信感が大きかった」と推察する。
一方、「淀殿を悪女とする見方は秀忠の時代に定着する」と指摘するのは、京都橘大の田端泰子名誉教授だ。
田端教授によると、大坂の陣で勝った徳川2代将軍の秀忠は大奥の制度を整え、女性が表だって政治に口出しできないようにした。政治の表舞台で秀頼を支えた淀殿は、それだけで悪女の資格を得てしまうとことになる。
淀殿が政治の矢面に立ったのは権力欲が強かったからではなく、「加藤清正や福島正則ら有能な家臣がいなくなり、自らせざるを得なくなった」と田端教授。「淀殿が『人質になってもいい』と思ったことは納得できる」と話す。
■見直される人物像
大坂冬の陣の講和後、家康は和議の条件に反して大坂城の二の丸の堀を埋め、難攻不落を誇った大坂城は裸城となった。すると、家康はさらに追いうちをかける。
秀頼を大和か伊勢に移すか、それとも牢人どもを追放するか-。
憤慨する豊臣方は、徹底抗戦の方針を決め、慶長20年5月、大坂夏の陣が勃発、激戦の末に大坂城は炎上した。淀殿と秀頼は助命嘆願したが拒否され、大坂城の山里丸で自害に追い込まれた。
跡部学芸員は「淀殿は家康の策謀に耐えながら、豊臣家存続のために最期まで苦悩した。悪女だなんてとんでもない」と擁護する。(産経)
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