19320 浅間火山博物館(群馬県嬬恋村)の記録に学ぶ   古沢襄

■夏が終わりに近づくと、信濃毎日新聞社の友人から毎年のように連絡がくる。「小諸のパブリックを予約したよ。民宿も取った」・・ほかの先約はキャンセルして、小諸のパブリック・ゴルフに行くのが、何よりも楽しみだった。ゴルフの後は民宿で麻雀、一泊した後は中軽井沢まで出て、創業明治三年という蕎麦屋で酒を楽しんだ。

お互いの現役を引退し喜寿を越えてからは年賀状だけの付き合いになったが御嶽山の爆発で旧友を想い出した。小諸といえば浅間山が近い。旧制中学を四年まで上田で学んだので、浅間山と千曲川は校歌でも歌われている。

昭和51年の頃だった。地球物理学者の竹内均・東大名誉教授が「いまいちばん日本で危ない火山はどれですか」との質問に「桜島です。これは、学者の間で意見が一致している」と答えている。

桜島噴火の予知は当たったが、竹内氏は「桜島の次に危ないのはどこですか」という質問に対して「浅間山でしょうね」と迷わず答えていた。信州に縁がある私にとってショキングな答えであった。

東北地方太平洋沖地震から三年経ったが、日本の火山帯が活動期に入ったという不気味な説も流れている。

日本は世界でも有数の火山国なのに、監視に必要な予算や人材が不足しているとの指摘がある。たしかに充実した観測体制は、鹿児島県の桜島や長野・群馬県境の浅間山などに限られるという。それにしても竹内氏が指摘した「浅間山でしょうね」はいまもって大噴火の兆しすらみえない。

気象庁の浅間山火山防災連絡事務所のホームページを時々開いて見ているが、無事平穏な浅間山の写真が鎮座している。

大学を卒業する年に同級生や友人たちとテントを背負って浅間山麓を一泊ハイキングをした。山を下りて上田の母の実家に顔を出したら叔父が喜んでくれて、奥座敷で皆にビールを振る舞ってくれた。昭和31年(1956)秋だったろうか。58年も昔のことになった。

    浅間山火山防災連絡事務所
      〒389-0111
      長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字北浦1706-8
      TEL 0267-45-2167
      FAX 0267-46-1527

浅間山の噴火予知に関心を持ったのは、天明三年の浅間山大噴火がきっかけとなった。「沢内農民の興亡」を書くので、江戸時代の東北飢饉を調べていたら、古澤家の中興の祖と目される四代善蔵が天明二年に生まれていた。浅間山大噴火の前年だった。

沢内村は天明元年、二年と不作が続き、天明三年には最大の飢饉となった。春から五穀はほとんど実らず、生ワラの穂を半日水につけて刻み、これを蒸して石臼にかけて粉にして餓えをしのぐ悲惨さだった。

天明四年には奥州大飢饉で一〇万人の餓死者を出している。三代善兵衛の時代に富農になっていた古澤家からは餓死者は出ていないが、天明六年、寛政二年、寛政八年、文化五年、文化六年と短い期間に五人の女性が亡くなっている。やはり苦難の歴史の中で犠牲になったのはか弱き女性だったろうか。

沢内村の歴史を調べている中に、明和七年(1770)の夏、村の北方で放射線状の極光(オーロラ)がみられたという資料を発見した。このオーロラ現象は日本全国でもみられている。(想山著聞奇集)人々は不吉な前兆と怖れおののいたが、その記憶も薄れた十三年後の天明三年に浅間山が大噴火を起こした。

噴煙は五〇〇メートルの高さに達し、東南方に広がった。空高く舞い上がった火山灰は太陽を隠したという。その後、一年半にわたって、火山灰の帯が太陽光線を遮り、日本列島の温度を平均で三度下げている。大爆発による死者は1151人。

浅間山大噴火の被害がどんなに悲惨なものだったのか?群馬県吾妻郡鎌原村にはその史実が伝わっている。村の人口570人のうち477人が土石流に飲み込まれて命を失った。火口から12キロの鎌原村だったが、土石流に気がついた村民は村の観音堂の階段を駆け上がって避難した者もいる、

50段の階段で35段まで土石流がきたというから、紙一重で助かった者と命を落とした者が出ている。昭和54年(1979)に観音堂周辺の発掘調査がおこなわれたが、石段下部から女性二名の白骨遺体が発見されている。若い女性が年長者の女性を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったのであろう。(杜父魚ブログ 2014.10.03 Friday name : kajikablog再掲)

■天明三年の浅間山大噴火を浅間火山博物館(群馬県)で学ぶ

浅間火山博物館は浅間山噴火の最古の記録は685年の「日本書紀」の記述だと指摘している。

浅間山の噴火として記録された最古のものは西暦685年(白鳳13年)の噴火で、日本書紀に書かれています。その後の約600年間には噴火の記録としては仁和3年(887年)と天仁元年(1108年)の噴火があり、いずれもかなり大きな噴火であったと思われます。

ついで弘安4年(1281年)にも大きな噴火がありました。天仁元年噴火の記録は詳しくありませんが、噴出物の調査から、追分原と六里ヶ原に大量の火砕流をおし出したと考えられます。

上の舞台溶岩もおそらくこの時の噴火で流れ出したものです。噴出物の総量は1万?以上に達し、天明3年の噴火以上に烈しい噴火であったと考えられます。大量の噴出物が噴きだされたため山頂部が陥没して前掛山のくぼみができたと想像されます。山麓一帯は火砕流で焼きはらわれ、大変な被害がでたと思われます。

弘安4年の噴火後200年余りの間ははっきりした噴火の記録がなく、おそらくわりあい静かな状態が続いたと思われます。永正14年(1517年)から享録4年(1532年)にかけて噴火があり、ついで慶長元年(1596年)から14年(1609年)にかけて烈しい噴火がありました。

その後ひんぱんに噴火が繰り返され天明3年の大噴火まで続きます。とくに江戸時代に入ってからは正確な記録が残されるようになり、記録に残る噴火の回数が急に多くなっています。噴火の状況は現在見られるような爆発を繰り返す型のものであったと思われます。
 

■天明3年の浅間噴火は過去最大の出来事

天明3年の噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事でした。

記録がたくさん残されており、その中には実際に噴火の状況に接した人が書いたものもあり、噴火の経過が非常によく分かります。これらの記録と噴出物の調査によると当時の状況は次のようでした。

噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。

7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。沓掛(中軽井沢)や追分などは無事でしたが、人々は7日の朝から南の方へ逃げていきました。

7日から8日にかけての噴火はとくにすさまじく、烈しいゆれで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻がすさまじかったといいます。午後4時頃、火口から黒煙がおしだし、黒豆河原一帯を焼きはらい埋めつくしました。

 
■噴煙

火山灰が一団となって流れ下った火砕流で、その堆積物は18.5?ほどの面積にひろがり、体積0.1?に及んでいます。高温のため中央部はとけて固まり溶岩のようになっています。その中に、当時生えていた樹木の焼け跡が穴となって残っています。

普通このようなものは溶岩の中に木の幹が取り残されてできるので溶岩樹型と呼ばれます。大きなものは直径1m以上もあり、巨大な木が茂っていたことが知れます。

8日(8月5日)の明け方少しおさまったものの、午前から再び烈しくなり、午前10時、真っ黒な柱が吹き出すと見る間もなく鎌原の方へぶつかるようにとびだしました。これは巨大な火山弾をまじえた火砕流で、山腹に沿ってなだれ落ちてきたものと思われます。

火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下ったと考えられますが、現在その堆積物の見られる範囲が鬼押出溶岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もあります。

噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられ、柳井沼と呼ばれていました。

火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させ、これが鎌原の集落などを襲ったのかもしれません。

あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、さらに火砕流も起こったと考える人もいます。浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができました。

火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没してしまいました。このため鎌原では住民597人の内466名が死に、助かった人はわずか131名でした。

 
■利根川

西側の丘の上に観音堂があり、ここに逃げ登った人は幸いに助かりました。当時50段の石段があったのですが、現在はすっかり埋まって15段だけ残っています。

岩屑流・泥流は吾妻川を一時的にせきとめ、やがてせきがきれて、下流に熱い泥水がおしよせ、沿岸の村々をおそいました。鎌原の北にあった常林寺の鐘もおし流され、ずっと下流の15㎞もはなれた川原湯の谷の底に明治43年に見つかりました。

また、その竜頭が昭和58年に12㎞下流の嬬恋村今井の川原で見つかりました。この鐘は現在博物館内に展示されています。熱い泥水は熱石をまじえて吾妻川にそって流れ下り、人家をおし流し、田畑を埋め本庄・熊谷あたりまで達しました。利根川は泥がうまって浅くなり、栗橋より上は旧暦10月まで船が上がらなかったといわれます。死者は総計1,600名以上、流出した家屋は1,000戸以上でした。

火砕流の流れたあと、そのえぐりとったくぼ地に沿って火口から溶岩流が流れ下りました。これが鬼押出溶岩流です。巾2㎞、面積約6.8㎞2、体積0.17㎞3で、火口から北へ約5.5㎞流れて止まりました。

山頂付近はその後降った火山灰でおおわれていますが、中腹以下は今なお当時のままの状態が残されています。浅間園のあたりは、表面にゴツゴツした大小の岩塊がつみ重なっています。

このような溶岩はふつう塊状溶岩と呼ばれます。これは溶岩流が流れ下る間に表面が固まり、それが砕けて大小さまざまの岩塊がつみ重なったような状態になったものです。

浅間園よりももっと上方では、なめらかな表面をもった部分も見られます。これは溶岩流の表面があまり砕けないうちに固結した部分です。溶岩流のへりなどでは、中心部の流れの方が遅いため固まった表面が引きはがされて深いわれめ(クレバス)ができています。鬼押出溶岩流の流出を最後に、大噴火も静まり、噴煙もしだいに収まりました。

鬼押出溶岩流はその後長い年月の間熱い温度を保ち、末端からしみ出した水は熱湯となっていました。大笹までそれを引いて20年ほどの間使っていたと言われます。

天明3年の噴火による災害はこれだけではありませんでした。軽石や火山灰でおおわれた田畑は荒れて、作物がとれませんでした。上空に噴き上げられた火山灰が日射をさえぎってその後数年の間気候も寒くなりました。

ちょうど同じ年にアイスランドのラガキガルでも大噴火があり、世界中が寒い時代になりました。このため天明の大ききんが起こり東北地方をはじめ日本各地で多くの死者や難民がでました。(浅間火山博物館)

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