最長老、改革派重鎮の葬儀は八宝山で火葬。その日、上海株は大下落
6月19日午前、北京の八宝山で先日なくなった喬石の葬送が行われた。中国全土の行政機関は半旗を掲げて弔意をしめした。
火葬には現執行部トップセブン全員と胡錦涛が出席したが、最大のライバルだった江沢民は現れず、新華社は「哀悼の意を伝えてきた」と報じた。
1989年天安門事件で、趙紫陽が失脚し、トウ小平は突如、上海市書記だった江沢民を呼んで、新総書記に任命した。
本来なら喬石が、そのポストに就く筈だった。
趙紫陽解任をめぐって李鵬、楊尚昆、薄一波らがトウ小平側になびき、胡啓立らが反対、喬石は棄権した。
以後、江沢民と喬石のふたりはことあるごとに対立し、喬石の党内での人気は高く、一時は「落水石出」と言われた。「水」は江沢民の「江」を意味し、石は当然ながら喬石を意味した。
97年に喬石は「定年」を理由に引退、かわりに首相には朱容基を押した。
14日に喬石が死去した折、党中央、国務院、全人代、そして全国政協の四大国家機関は連名で「訃報告示」を行った。喬石追悼の文字数は2033字。
過去の字数を比較すると、陳雲=5178字、トウ小平=4993字、黄菊=153字、劉華清=193,葉剣英=1380字だった。
いうまでもないが、陳雲はトウ小平の最大最強のライバルだった。黄菊は上海市長から全人代。江沢民派だった。劉華清は「中国海軍の父」をいわれ、トウの引きで政治局常務委員だった。葉剣英は義侠心厚く、トウ小平が失脚時代に匿った。
喬石は副首相から全人代常任委員長をつとめ、鮮やかに引退したが(裸退)、党内の人気は最後まで高く、改革派の田紀雲ら団派への影響力が強かった。薄煕来や周永康らの腐敗には怒りを込めて批判を展開した。
喬石葬送の日、上海株(A株)は13%下落した。株式バブル崩壊への予兆のように思えた。
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