19565 ペルシャ湾の石油貯留層を上回る東支那海の海底油田層   古沢襄

御殿場の別邸に引きこもった岸信介氏のところに足繁く通うことになったのは、満州国時代についての岸証言を得たいと思ったからだ。

岸側近記者といわれた大日向一郎(日経)、清水二三夫(共同)の先輩も「岸は満州国の建設に関わった最重要人物なのに多くを語ろうとしない」とサジを投げていた。

岸が農商務省に入ったのは一九二〇年(大正九年)、早くから「革新官僚」の名が高く、農商務省が商工省に分離してから38歳で局長職について、吉野信次~岸信介ラインで商工省を牛耳ったといわれた。

それが1936年(昭和十一年)に満州国実業部総務司長に転出した。この転出は軍部からの岸待望論だったと言われている。日を置かずして実業部次長、総務庁次長を歴任して事実上の満州国政府最高首脳に上り詰めた。

というよりは満州国政府は滅びた清王朝の満人たちが政権を握ったが、行政経験がなく軍事支配していた関東軍も広い行政経験が欠落していた。日本の官僚組織でトップ・クラスの人材を求め岸信介に白羽の矢が立ったというのが真相であろう。

それは商工省の逸材といわれた椎名悦三郎、美濃部洋次、始関伊平が岸信介の下で新生満州国造りで働いていたことでも分かる。

岸信介は1939年(昭和十四年)に古巣に商工省の次官として返り咲いた。43歳の商工次官だから意気揚々たるものがあったろう。

満州国時代は胸を張って回顧できる筈なのだが、岸信介は話題に乗ってくれなかった。いまもその理由が分からない。

その代わりとっておきの話をしてくれたのは、東支那海の海底油田の話題であった。

国連エカフェの調査船「F・V・ハント号」が東支那海に巨大な海底油田の可能性があると昭和四十三年に報告書を公表しているので、一度、読んでみなさいという。

中国の揚子江、黄河の流れから運ばれてきた堆積物は東支那海の海底に石油や天然ガスを保留しているに違いないとアメリカは判断した。その推定石油埋蔵量は2000兆トンというからペルシャ湾の石油貯留層を上回る埋蔵石油が東支那海の海底に眠っていることになる。

中国はどうか。信じられないことだが、中国は渤海湾油田の開発に忙殺されていて、東支那海の海底油田には関心が薄かった。もうひとつの理由は水深120ートルの海底油田を掘削する技術、経済性で中国のみならず日本もまだ自信が持てなかった。

だから仮に掘削に成功しても、掘削櫓や海底油田から運ぶ海底パイプラインが、敵国によって攻撃される脆弱性を持っているという海底油田の否定論が幅をきかせていた。

イギリスの北海油田の石油が北海フォーティーズ油田から海底パイプラインを通って、英本土に流れたのは1975年(昭和五十年)十一月三日。イギリスの天然ガス需要の95%は北海油田からのガスから賄われている。

大深度の海底油田から掘削するドリルパイプの技術が北海油田で成功したことにより、水深150メートルであっても東支那海の海底掘削が可能になった。イギリスは北海油田の開発で成功した特殊機器やシステムを大々的に売り込みを始めている。

アメリカはどうか。かつては東支那海の海底油田にCIAはじめもっとも関心が深かったのだが、米シェール革命によって「世界最大の産油国」になった。

石油開発ブームの真っただ中にあるアメリカだが、東支那海で中国と火花を散らして海底油田の争奪戦に加わる可能性は薄い。

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