19652 高尾山古墳取り壊し「撤回」 沼津市長表明   古沢襄

東日本最古級とされる高尾山古墳(沼津市東熊堂)の都市計画道路整備に伴う取り壊しを巡り、同市の栗原裕康市長は6日、記者会見を開き、「取り壊し方針を白紙撤回する」と表明した。

今後は、古墳の現状保存と道路整備の「両立を目指す」と述べた。多数の考古学関係者が求めていた古墳の保存が、実現へ前進した。
  

この問題で、沼津市は今年5月、古墳を取り壊して道路を整備する方針を発表した。しかし、日本考古学協会や地元の考古学関係者らが「学術的価値が高い」などと反発。これらを踏まえ、栗原市長は古墳取り壊しに伴う発掘調査の予算執行を保留して対応を検討してきた。

記者会見で栗原市長は「大半の意見は(古墳の)保存と(道路の)整備の両立。学会などの意見も踏まえ、残すしかないと判断した」と説明。両立の実現手段については、有識者と関係機関による協議会を設置して「技術的に一から議論してもらう」とした。

協議会は学習院大教授(行政法)、埼玉大教授(都市交通)、日本イコモス国内委員会事務局長(文化財保護・活用)と、難波副知事、県教育委員会幹部の5人を委員に、国土交通省と文化庁がアドバイザーとして参加する。第1回の会合は9月3日に行い、今年度中に3回程度の開催を予定している。

ただ、市は当初、古墳の保存に向け、さまざまな工事方法を検討している。協議会の結論が出るまで、長期化する可能性もある。周辺道路は県内有数の交通量で、朝夕の渋滞は深刻。保存要望の一方で、地元では早期開通を望む声も大きい。

■貴重な財産守られた

古墳の保存を求めてきた歴史学者の磯田道史・静岡文化芸術大教授「市長の英断を歓迎したい。卑弥呼時代の東国最大の古墳で、沼津市のみならず、国の貴重な財産が守られた。古墳を傷つけずに保存することと、道路整備は両立可能。期待したい」

〈高尾山古墳〉方形(台形)を前後に合わせた「前方後方墳」。長さ約62メートル、最大幅約34メートル、高さ5メートル。古墳最初頭期(3世紀)の前方後方墳では国内最大級とされる。市教委の調査では「築造は230年頃、埋葬は250年頃」で、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳(奈良県桜井市)とほぼ同時期とみられる。(読売)

■フリー百科事典「ウィキペディア」・・高尾山古墳

高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある前方後方墳。旧称は「辻畑古墳(つじばたけこふん)」。史跡指定はされていない。

古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造と推定され、築造当時の東日本では最大級の古墳である。

2015年現在、古墳域が都市計画道路の建設予定地に位置するため、古墳保存と道路建設の両立に向けた施策が検討されている。

静岡県東部、愛鷹山山麓の丘陵末端部に築造された古墳である。古墳東側には熊野神社と高尾山穂見神社が鎮座するが、近年に発掘調査が始まるまでこれら2社は墳頂にあり、地名の「東熊堂」もその熊野神社(元は熊野堂)に由来する。

古くからこれらの神社下の小山は古墳であると伝えられていた。沼津市の都市計画道路の建設にあたって神社境内が建設予定地となり、熊野神社・高尾山穂見神社は小山東側に遷座されたが、その際に小山から古墳の遺構が見つかったため、2008年(平成20年)から発掘調査が実施されて小山が古墳であることが正式に確認された。

その後、現在まで数度の調査が実施されている。古墳名の「高尾山」は神社の鎮座した小山(墳丘)に対する古くからの通称になる。沼津市では「辻畑古墳」の名称で1979年(昭和54年)に遺跡登録がなされていたが、2011年(平成23年)に「高尾山古墳」を正式名称に改めている[3]。

墳丘は、方形の主丘に方形の突出部が接続した前方後方形で、前方部を南方に向ける。墳丘長は62.18メートルを測り、築造された古墳時代最初期としては東日本で最大級であり、全国でも大規模な部類になる。

古墳西側を通る市道の建設の際に墳丘の一部が削平されたため、全体像は不明であるが、主軸を含む大部分が発掘調査により明らかとなっている。

墳丘のうち前方部は比較的低く造られており、古墳時代初期の特徴を有する。また墳丘周囲には周濠が巡らされており、その幅は最も広い部分で約9メートルを測る。

主体部(埋葬施設)は後方部のほぼ中央に位置し、墳丘主軸と垂直の東西方向に木棺が直葬された。この木棺は調査時には木片を残すのみであったが、元は舟形木棺であったと見られ、長さ約5メートル・最大幅約1.3メートルと推測される。棺内部からは大量の水銀朱や銅鏡(破砕鏡)1面のほか、鉄槍・鉄鏃といった被葬者の武威を表す副葬品が出土している。

古墳の年代は、沼津市教育委員会によって、出土土器の編年を基に3世紀前半(古墳時代最初期)の西暦230年頃の築造、西暦250年頃の埋葬と推定されている。

愛鷹山麓では弥生時代後期から古墳時代初期にかけての大規模な集落遺跡(足高尾遺跡群)が知られるが、高尾山古墳の被葬者はその首長と見られ、いわゆるスルガ(珠流河/駿河)地域の王とされる。

また、『魏志』倭人伝によると卑弥呼が248年頃に死去したとされることから、高尾山古墳の被葬者は卑弥呼と同時期の人物になる。

卑弥呼の墓と推定される箸墓古墳(奈良県桜井市)を始めヤマト王権の古墳では墳形に前方後円墳が採用されるが、それとは異なる前方後方墳が採用されたことに当時のスルガ地域の独自性が見られ、『魏志』倭人伝において卑弥呼と戦ったと記される狗奴国(くなこく)王の卑弥弓呼(ひみここ)に比定する説もある。

国道246号裾野バイパスを延伸して国道1号沼津バイパスとを結ぶ都市計画道路(沼津一色南線)の建設予定地に古墳域があたるため、保存と建設を巡った議論がある。平成27年6月の議会で取り壊し予算が通過したものの8月になり市長が撤回を発表したため、古墳保存と道路建設の両立を目指した施策が検討されている。

■古墳の規模

墳丘長:62.18メートル
後方部 長さ:31.41メートル
幅:北辺29.18メートル(推定)、南辺34.18メートル(推定)
高さ:4.72メートル(推定約5メートル)
前方部 長さ:30.77メートル

■副葬品
 

主体部(埋葬施設)から出土した副葬品。

青銅鏡 1面 中国の後漢製の「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)」。直径13.5センチメートル。意図的に割って埋葬者の頭部付近に置かれた破砕鏡とされる。

鉄槍 2点
鉄鏃 32点
槍鉋 1点
勾玉 1点
土器 数点

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