■鬼怒川の洪水で気になる茨城県下妻古沢
15年前の記事(2010.04.11 Sunday name : kajikablog)だが、東北の古沢氏のルーツと目される茨城県下妻古沢と鬼怒川対岸の八千代町が堤防決壊の影響で避難騒ぎだと聞くとやはり気になる。
この十五年ほど春が来ると茨城県の下妻市や八千代町を必ずといってよいほど訪れてきた。ことしもその季節がやってきたが、底冷えする陽気に災いされて足が鈍っている。七十八歳の身には寒さが禁物。心は鬼怒川の河畔に飛んでいるが、川風は年々歳々、身に堪える様になった。
十五年前のことになるが下妻市の教育委員会を初めて訪れた。教育委員会というと小中学校の行政を預かる役所と思いがちだが、地方史に詳しい人が一人や二人は必ずいる。私の親友・高橋繁氏(西和賀町の初代町長)や加藤昭男氏(沢内村の最後の村長)も教育長が長かった。いずれも古文書を読む達人。地域の歴史には滅法強い。
下妻市の教育委員会で応接してくれた人も歴史好きであった。お茶を振る舞われて三時間も話し込んだ。「下妻の歴史は多賀谷氏の興亡とともにあった」と言う。私が興味を持っていたのは、上古からある下妻の地名と、現在は下妻市古沢の地名で残った古沢邑がいつの時代からあったか、であった。
奈良時代に編纂された「常陸国風土記」は一応は目を通していた。当時は下妻地方は大湿地帯で毛野河(鬼怒川)は時折、洪水を起こす”暴れ川”であった。ついでながら言うと、私が住む守谷地域は平将門の時代には、大きな沼の底にあった。その沼の島に将門は出城を築いている。
常陸国は不毛の湿地帯にみえるが、野馬を放牧し、稲作に適した豊穣な土地でもあった。下妻市域からは古墳時代の二十六遺跡が発見されている。いずれも低地における水田経営の跡がみられる。律令制の時代に「下真(しもつま)」の名が出てくるが、郡郷制に由来する地名だったという。平安時代の中期に関東を揺るがせた平将門の乱が起こった。爾来、常総地方は武家平氏(桓武系平氏族)の力が扶植されてきた。
教育委員会氏によれば「常陸国風土記」は八世紀初頭の下妻地域の事情を知るのに便利だが、「古老の相伝うる旧事」の前置きが付いているので、古事記のように口伝が基本になっている。この中で下妻地方の大湿地帯「謄波の江」が語られているが、無主の土地だったという。
天慶三年(940)に将門の乱は鎮圧された。武家藤原氏の藤原秀郷と桓武系平氏の平貞盛の連合軍の勝利であった。この桓武系平氏の流れから、後に下妻広幹が出ている。平安末期には「下津真庄」「下妻庄」なる荘園名があって、八条院(鳥羽天皇の第三皇女)の領地とされている。下妻広幹は在地地主として荘園名の下妻を名乗ったのではないか。
中世に入ると下妻の所領は変遷を辿る。桓武系平氏の下妻氏とは別の藤原秀郷流の下妻長政が、平姓下妻氏に代わって入部している。常総の支配権をめぐって武家平氏と武家藤原氏の対立があったのだろう。この争いに北条執権家の大仏氏も加わっていた。
さて古沢邑のことになる。かつては「謄波の江」といわれた大湿地帯に連なって大宝沼があった。多賀谷氏はこの大宝沼を利用して、堅固な水城・下妻城を築いている。この大宝沼のほとりに大宝八幡宮がある。「八幡宮略縁起」「大宝八幡宮往代記写」が現存するが、後者に次の記述がある。
修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)が大宝二年(702)に、「謄波の江」の古沢黒島の近くに出た怪しい青火を鎮めたことに始まり、この社(やしろ)は舟守の信仰を集めたと・・・。大宝元年は大宝律令が出来て、大宝二年に頒布されている。このことは奈良時代初期に古沢黒島の地名があったことになる。
多賀谷氏を滅ぼした家康の徳川幕府は下妻城を完全に破却しただけでなく、江戸中期から大宝沼の干拓を始めた。大宝沼は大正七年に姿を消したので、今は下妻城の縄張り図で往時を見るしかない。だが古沢の地名は下妻市古沢で残っている。
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