■参議院議員・国際政治学者 猪口邦子さんが語る
連日うだるような暑さだった「戦後70年」の夏。集団的自衛権を許容する安全保障関連法案が国会で審議され、憲法9条との関係などを巡って国論を二分するほどの議論になった。
安倍首相による戦後70年談話も内外の神経質な視線にさらされ、先の大戦から今日に至るまでの日本の軌跡について、粘着度の高い議論が方々で交わされた。
そういう議論を聞いていて解せなかったのは、世界各地で発生し続ける紛争やテロの撲滅に、日本は主要国の一員としてどう関与していくのかといった議論がほとんど聞かれなかったことだ。
こうした法案を議論しなくてはならない根本原因だからである。安倍政権も「積極的平和外交」を提唱しながら、紛争解決への関与のあり方については丁寧な説明はしていない。
そんなことを思ったのは、この夏に読んだ1冊の本がきっかけだった。本には、こんなくだりがある。
「現代の戦争では死傷者の九0%が戦闘員ではなく非武装の民間人であり、その半分が子供である。子供の戦争犠牲は兵士よりもはるかに多く、またどの年齢層の大人より多い」(『戦略的平和思考 戦場から議場へ』=NTT出版)
なぜ今も、紛争やテロは発生し続けるのか。なぜ、子供たちが犠牲になってしまうのか。そもそも、私たちはどんな時代を生きているのだろうか。
少なくとも筆者はよくわかっていない。自分に関係しそうな事にしか関心が及ばない「半径1メートル人間」になりかけているからかもしれない。そう考え、専門家に教えを乞いに行こうと決めた。
その相手は参院議員で国際政治学者でもある猪口邦子。先の『戦略的平和思考』の筆者である。
猪口は上智大学教授から軍縮大使に転じ、小泉政権下の少子化・男女共同参画担当相などを経て、現在は参院議員(自民党)として男女共同参画社会の実現に注力している人である。
筆者は30年近く前、猪口が主宰する国際政治学のゼミ生だった。しかし、猪口が国会議員になってからはその意図が理解できず、学恩こそ忘れないものの、正直なところ距離を置いて見つめていた。
猪口の元ゼミ生の多くも同意するだろうが、これまでのキャリアをなげうって、毀誉褒貶きよほうへんも多い国会議員へ転身したことが解せなかったのである。それだけ、教壇に立つ当時の猪口は輝いていたし、彼女が指し示す国際政治学の最新知見は刺激的だったからだ。
とはいえ、このテーマを聞くのに政権与党内にいる国際政治学者は最適だ。後半生の生き方について膝詰めで聞く良い機会でもあると考え直した。
インタビューは参院開会中の8月下旬、何回かの日程変更の末、ようやく実現した。場所は東京・永田町の参議院会館。安全保障関連法案が参院で審議されている折、会館横の道路脇には黒塗りの車が止まり、そのダッシュボードには「防衛省」の所属を示すカードが置いてあるのが見える。
猪口の部屋に到着すると、まず目に飛び込んできたのは、朝の眠気を吹き飛ばすようなピンク。ピンク色のスーツを身にまとった猪口だった。しかも満面の笑みを浮かべている。後に説明するが、これは猪口らしい対人戦略なのである。
応接テーブルの上には書類が積まれ、猪口の陣取るソファの背後には洋書がずらりと並ぶ本棚がある。事務所のしつらえからは、現役研究者と言っても違和感はない。
さて、本題である。紛争やテロはなぜ今も、世界各地で発生し続けるのだろうか?
こう問うと、間髪入れずに答えが返ってきた。
「英語の表現では『Deep-rooted conflict』。つまり、『根の深い戦争』というべきでしょうか。それは民族対立だったり、宗教対立だったり、部族対立であったり……いろいろな矛盾や国境線の引き方の不具合など、本来ならば第2次世界大戦の直後に解決しておくべきだった政治課題が、米ソ冷戦構造というものが浮上したために、いっせいに抑圧、あるいは自己抑制されたためだと思います」
つまり、戦後から1980年代いっぱい続いた東西冷戦下で、黙らせられてきた人々の怨念や互いの対立感情が今ごろになって、噴き出しているというのだ。
先の大戦後、かつてない数の主権国家がアジア・アフリカに誕生する。いわゆるA・A諸国だ。
55年のバンドン会議(インドネシア)に象徴されるように、A・A諸国は念願の独立を遂げ、その未来は輝いていた。それなのになぜ、彼ら自身の課題解決に向けた意志は抑制されたのか。
猪口はその理由として、核軍拡対立の言い知れぬ恐怖について言葉を尽くして語った。
「東西冷戦の時代、(米ソの)超大国間では熱戦化しませんでしたけど、核軍拡対立という、管理を間違えれば人類がかつて経験したことがない未曽有の悲劇となる可能性があったわけです。だからこそ、熱戦化できなかったほど極限までの恐怖の武力対立でした。各陣営の中のほころびは、(相手陣営から)付け込まれる。もちろん、当時も戦争はありましたけど、すべて(米ソの)代理戦争の形で戦われた訳ですね」
その典型が朝鮮戦争であり、ベトナム戦争だ。こうした代理戦争は中枢から遠く離れたアジアで起き、激化した。米国の裏庭で起きたキューバ危機が核戦争寸前で回避されたことを考えても、アジアが激戦地になったのは偶然ではないのだろう。
猪口の説明は、その後も大学の講義のように続く。
「これが構造として世界の基本を規定します。この中でローカルな政治課題は、話し合いによって、場合によっては武力沙汰を覚悟しても、(第2次大戦直後に)解決しておくべき課題だったんです。
しかし、これを許すと両陣営それぞれの不具合や隙になるということで(解決する意志は)抑圧された。表面上は安定した平和な地域として形を整えなければ、冷戦期における国家としての立ち位置がなかった。だから、陣営の維持・強化のために、軍事政権が正当化されたし、ローカルな対立や政治課題の解決が抑制されてきた歴史があったと思うんです」
猪口の表現を借りれば、いまも紛争やテロが起きているのは、不満を抱えながらも東西両陣営によって長い間、「眠らされた」地域だ。その憎しみと暴力の増幅器が、それぞれの土地に深く深く根を張った怨念にも似た人々の対立感情だったというのである。
■民主化の波と9・11の衝撃
民主化促進という考えが最優先の価値になったのは70年代です。『第1次デタント(米ソ間の緊張緩和)』の後ですね。その時、イベリア半島に始まる民主化の波が評価され、歓迎された。そして、東ヨーロッパの民主化と解放、直近ではチュニジアに始まる『アラブの春』への期待というように長い息で続いているわけです。こうした和解プロセスが第2次大戦直後に行われたら、世界はだいぶ違ったものになったと思います」
それを阻んだ東西冷戦がようやく終結するのが89年のこと。90年には東西ドイツが統一された。
「きっかけは西側が初めて、(85年に書記長に就任した)ミハイル・ゴルバチョフという交渉・対話ができるソ連側のリーダーを発見したことでした。
その点では、英国のマーガレット・サッチャーが大きな役割を果たしました。当時、ロナルド・レーガン米政権はソ連を『悪の帝国』と呼んだわけですけれど、サッチャーが『いや、ゴルバチョフ書記長は西側と対話できる首脳である』とレーガンに伝え、認識を変えさせた。
これはレーガンがサッチャーに信を置いていたから実現したわけで、世界史に位置付けて良いほどのサッチャーの成果です」
その結果、米ソ首脳会談が85年についに実現し、それから4年ばかりをかけて冷戦終結へのカジが切られることになる。
「それで冷戦終結後、世界が平和になるかと思ったら、2001年9月11日の同時多発テロが起きてしまった。ここで最初の大きな警鐘が鳴らされた。つまり、長い間抱いていた不満や、解決できなかった問題が究極に悪化していることを世界のすべての国が知ったわけです」
冷戦終結によって各地で起きつつある「Deep-rooted conflict」。そこに生じたほころびに付け入るテロ集団の狂気を世界中が目撃した。それが「9・11」だったと言える。
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