■近代中国の歴史観は「反キリスト教」と「反外国主義」が混在する奇妙なナショナリズム 「反日」へのねじれは二重構造、底流に流れる中華独特のゼノフォビア
<佐藤公彦『中国の反外国主義とナショナリズム』(集広舎)
中国史を戦後日本のアカデミック世界では左翼知識人が論壇を壟断したために「階級史観」「プロレタリアート独裁史観」でまったく的外れな解釈を展開してきた。
その結果、当然のように日本に於ける中国史は出鱈目な後知恵改竄となって、歴史は無惨なまま、しばし放置された。
本書は或る意味で戦後の中国史解釈への訣別である。
しかも浩瀚、難しい語彙も並ぶうえ、登場人物が夥しいため、一気には読めない。しかし一行一行が肺腑に染みいるように、いかに戦後日本の歴史学が蒙昧であったかを同時に語っている。独特なスタイルで中国近代史の本質に迫るのだ。
つまり中国の本音と建て前が二重に混乱して、なにがなんだか分からない。毛沢東時代のように「原則的で建前的だったときはそれでも良かった」が、具体的証拠がそろいだすと、過去の左翼的解釈は誤謬であったことが明瞭となる。
とはいえ左翼教条主義が去っても、現代中国の史家にとっては勧善懲悪的な二元論が支配しており、「『侵略と抵抗』というパラダイムーー蛮夷の邪悪なアヘン輸入と侵略に対する『清浄な』中華の『正しい』道徳との闘いという善悪二元論的な形式をぬけきれない」。
理由は「歴史を道徳とか倫理でその正統性を弁証し、評価裁断しようとする癖は『史記』以来の歴史意識だから」である。
筆者の佐藤公彦氏はこうした文脈から左翼歴史家らが編纂した『新編原典近代中国思想史』(岩波書店)を俎上に載せてこういう。
「編集の仕方は殆ど誤りに近い。太平天国と反キリスト教『教案事件』と山東白蓮教反乱、反キリスト教の義和団の資料が一緒に並べられている。解説を読んでもそれらの間の歴史的な連関、因果的展開が分からない。
太平天国と義和団の間は(中略)『ねじれ』、『対立』しているのであり、それを説明しないと、旧編と同じく、『人民闘争』『農民の革命』でくくってしまうことになる」。
著者は、この説明の一環として『天津教案』(18790年)を取り上げて、次のように言う。
「この時期は、清国の社会風潮としては、反太平天国の儒教復興思想が持続し、反西洋、反キリスト教が主流だったのである。
かつて戦後歴史学の一時期『明治維新と洋務運動』というような近代化を比較する研究が流行ってことがあったが、清国の思潮は、『文明化』だった明治日本の思潮と大きく異なっていたことに無自覚だった。産業化や軍事近代化の側面に特化して注目したのは、マルクス主義的な経済主義的発想だった」からである。
本書は以上の基本的姿勢から、中国近代史をアヘン戦争、太平天国、義和団から中国分割時期の反外国主義の抵抗、その連関と文脈から生まれた辛亥革命、そして群雄割拠時代から共産党独裁へといたるなかでの反外国主義とナショナリズムの本質を抉り出す、かつてない力作となった。
それも事件の経過、種々のこまから事件を俯瞰するようにまとめている。
とくに太平天国と義和団という二大反キリスト教、反外国のナショナリズムが、細かく時系列に分析されている。
結末に著者は警鐘を乱打してやまない。
すなわち、いまの中国のいう「愛国主義」と『反日』なるナショナリズム的な宣伝は「義和団現象からいまなお断絶できていない」ため、北京五輪、尖閣をめぐる激烈な反日運動に繋がり、日本人は驚き呆れたが、底流にながれているのは、中国人に深く染みこんだ拝外主義的思想、しかもその底流になる妖術、魔術などが大衆洗脳の用具として利用されやすい社会的基盤がある。
反日は過激に燃え広がったが、しかも「凌奪と破壊」を以てしても構わないのだというメンタリティ、「愛国無罪」という中国でしか通用しない非論理を拡大させており、この結末をどうつけるかは不透明のまま、習近平は「愛国路線」を暴走しているのである。
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