19975 ウズベキスタン訪問の安倍首相 日本人抑留者追悼   古沢襄

ちかごろ、これほど心を打たれたニュースはない。シベリア墓参の長期墓参の旅を二度にわたって行ってきた私にとって、ひとしお心にしみこむ思いがする。

一度は茨城県の遺族会に参加してハバロフスク、イルクーツク、リストビヤンカ、ウランウンデ、ウラジオストクの日本人墓地をめぐり鎮魂の祈りを捧げた。

二度目は厚生省の墓参団に参加して団長を仰せつかり鎮魂の追悼文を読んだ。

この鎮魂の旅は「怨念を超えたシベリアの旅」(1999年12月発刊 杜父魚文庫)で詳しく述べてある。16年前のことである。

この中で祖国をみることなくソ連邦の土となった日本人は4万5575人、墓地数は332カ所。(昭和50年 引揚援護局の発表)とし、ソ連邦ウズベック共和国では二万五〇〇〇人が抑留されて、四〇人が死亡したことになっている。さらにタシケント州では六〇〇人が死亡したことになっている。いずれもソ連邦時代の”丸い数字”だから正確なことは分からない。

テレ朝の報道では八〇〇人が死亡、首都タシケントの墓地には、そのうち79人が埋葬されているとしている。安倍首相と昭恵夫人は墓前に花輪を捧げた。

もうひとつ気になるのはソ連邦に抑留された近衛文麿元首相の長男文隆氏(陸軍中尉)の死亡原因である。満州阿城砲兵連隊に所属、抑留後は15カ所の収容所を転々とさせられ1949年(昭和24年)のハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で25年の禁固刑を受けた。

また抑留中は士官であることを理由に労役を断固拒否しソ連に対し気骨のあるところを見せた。日本全国から帰国を求める数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で死去している。

このためソ連邦による暗殺説も残った。真実の解明が必要な近衛文隆氏の非業な死である。1991年になって「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪とし、名誉回復している。
(読者の声)最近、近衛文麿首相の共産主義スパイ説が取りざたされています。そこで以下のように私見をまとめました。
「近衛文麿はソ連のスパイだったのか」結論:スパイではなかった。
 1.理由:敗戦後自決している。ソ連は戦勝国だからもしスパイなら戦後傀儡首相になれたはず。スパイなら自決する理由がない。
2.スパイデマの狙い:日本人を混乱させる攪乱工作。意味不明の宣伝をして事情を知らない大衆を混乱させる。
3.デマの動機:近衛文麿が敗戦直前、昭和天皇に共産主義者にやられた、という意見を上奏した。これが左翼にカチンときた。図星だったからである。そこで反近衛宣伝を行ったものと思われる。
4.左翼が近衛をソ連スパイというのは、もし本当のスパイなら矛盾している。偽装のために極右と言うべきだからだ。瀬島龍三スパイ説も同じである。噴飯物だ。
5.近衛文麿の事績:近衛家は古代藤原氏であり皇室に最も近い家柄の名門である。近衛文麿は真面目な人であり、東京帝大生当時京都帝大で社会主義者の河上肇の講義を聴いたという。だから社会主義者だ、というのは間違いで、研究したのだろう。というのは当時の世界は、アカ全盛で世界の一流大学の学生が皆左翼に関心を持った。ソ連の大宣伝の結果である。ソ連国内は地獄であったが外部には天国の芝居をしたのである。ソ連崩壊後明らかになった。
6.近衛文麿は2・26事件後首相に推された。元老が高齢化し政治中枢の調整機能が低下したため、頼まれたのである。
7.近衛文麿の政策課題は支那事変、日米交渉である。支那事変はスターリンが蒋介石を使ってやらせた対日代理戦争であった。蒋介石の攻撃時、日本では対応方針で意見が分かれた。陸軍参謀本部の作戦部長石原完爾大佐は支那からの全面撤退、しかし他の人たちは、一撃講和論を主張した。蒋介石に大打撃を与えてから講和しようとしたのである。これは当時の日本人がスターリン・蒋介石の残忍な対日挑発攻撃に激昂し冷静さを失っていたからである。しかし全面戦争を考えた人はいない。
この方針調整に手間取っている間に、上海の情勢は悪化し、近衛首相は本土から救援軍を出さざるを得なくなった。その後ヒトラーの仲介工作を蒋介石が拒否したので1938年、近衛首相は「蒋介石相手にせず」声明を発表した。これは現在から見ると蒋介石はスターリンの傀儡で当事者能力がなかったので正しかった。近衛首相はそれでも蒋介石に講和を提案したが、蒋介石側は日本の手の内を見るだけであった。ソ連スパイ尾崎が支那事変の一層の深化を主張したのとは大違いである。
8.日米交渉は近衛首相が心血を注いで解決しようとした問題であったがルーズベルトが対日戦争を仕掛ける意図があったので成功しなかった。近衛がソ連のスパイなら和平のために日米交渉をするわけがない。1941.4にはスターリンは日本を対米戦に追い込むため、米国財務省内のスパイ(ホワイト)にハルノートの原案をKGB工作員(パブロフ)を送って伝えている。
9.近衛首相が退陣したのは、1941.10のゾルゲ事件である。ゾルゲは1933から8年間にわたり、尾崎秀実らをつかって日本の最高機密をスターリンに報告していた。尾崎は愛国者を偽装して近衛の近くに張り込み、情報をとっていた。この事件では犬養など多くの有名な政界の人物が尋問された。これを近衛の油断とみるのは無理である。ゾルゲはナチス党員で、ドイツ大使オットーの絶対的な信頼を得ていた。
10.近衛首相の長男、近衛文隆砲兵中尉は戦後満州でソ連につかまり、10数年後、帰国時にKGBに毒殺された。スパイになることを断ったからと言われる。近衛文麿がソ連スパイなら生かしておき文隆氏を人質にしていかようにも利用できただろう。これは1936.12の西安事件で蒋介石の長男?経国を人質にしていたソ連が蒋介石を降伏させ支那統一を止めさせ、日本攻撃に向かわせた事例が参考になるだろう。(東海子)

 
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コメント

  1. 大橋圭介 より:

    来年春、古沢さんは、墓前にこの報告をされると思います。国際法を踏みにじったソ連国民が、ナチスの蛮行をドイツ国民が、いつまでも心にとめてるように、日本国民にたいし、心を痛めてるのか?
    ロシアの教科書にきちんと書いてるのか?ロシアの良心を確かめたい。
    たぶん、日本の天皇陛下は、シベリアに眠る日本人に祈りをささげられたいと、きっと、おもわれてると、ぼくは、信じてます。

  2. 古沢襄 より:

    しばらく音信がなかったので病気をされたのかと気にかかっておりました、お元気な様子でなにより。お互いに84歳、健康に留意して長生きをしたいものです。

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