20001 わが母校・埼玉大学の回顧   古沢襄

都立戸山高校の同級生が東大を卒業して、社会に出ようとしている時に逆方向の国電に乗って六郷橋を渡る”挫折”の気持ちは忘れられない。

まだ小説家になるつもりでいたので、大学は中退でいいと割り切っていた。

早稲田には籍を置いていたが、家をでると高田馬場には向かわずに中央線の沿線にあった父と母の友人・新田潤さんのところに行って、小説の習作をみて貰っていた。

「片意地な街」で知られる新田さんは信州・上田の出。上田中学で私の先輩に当たる。そこから旧制浦和高校に入り、東大文学部英文科卒。

同じ上田の出身ということで母と親しく、牛込の家にも遊びにきていた。ある日、東大の角帽をかぶった青年・田宮虎彦さんを連れてきた。同人誌「日暦」に参加して貰うつもりだという。

「いい小説を書くんだよ」と父・古沢元に売り込んでいた。親しい高見順さんには話を通しているといっていた。

日暦グループは1936年に武田麟太郎が主催して創刊した「人民文庫」に参加した。田宮さんは東大を出て都新聞(東京新聞)に入り、小説を書き続けた。

新田さんは、その作品で日本のゴーゴリと評された。ゴーゴリはロシアの貴族文化の爛熟期に理想主義的リアリストとして知られ、プーシキンによってロシア散文文学が生長して、ゴーゴリによって鬱蒼たる巨木になった。

古沢元も「日暦」に連載した「びしゃもんだて夜話」が新田潤の作風の影響を受けたと語っている。

だが戦後の新田潤は流行作家となって、カストリ雑誌に風俗小説を書き飛ばし、戦前の重厚な小説の色合いがみられない。友人の高見順は「怠け者の新田は、相変わらず一夜漬けのような中間小説を書いているが、彼は才能がある男なのだ。奮起せよ、新田君。君も奮起して小説を書け」(闘病日記)と気遣った。

私が大学には行かずに新田さんのところに日参していたのは、母にハガキで知らせたのだろう。だが母は何も言わなかった。

「古沢元はいい小説を書いているので、それを読んで書写しなさい」
「文章の巧さよりも、小説の土台となる社会の勉強をしなさい」

新田さんは私を諭してくれた。

いろいろともがいてみても、小説家の修業はうまくいくものではない。早稲田をやめて埼玉大学に入ったのも、なかば小説をあきらめ、東京を離れたところで高校教師になって、好きな本を読みながら違った人生を歩む気になっていた。

当時の埼玉大学は、学生運動で挫折した者の流れが集まっていて、その一方で東大に入れなかった者が再起する二つの流れがあった。歴史学科から一年上の者が卒業後、東大大学院に入り、二年後輩は卒業後、東大経済学部に学士入学している。

高校教師になるつもりでいた私もためしにマスコミの入社試験を受けたら、東京新聞と共同通信から採用通知を貰った。田宮さんがいた東京新聞(都新聞)と共同通信のどちらにするか、迷ったが小説をなかばあきらめていたので、共同通信に入ることにした。

■ノーベル賞の梶田さん 母校の埼玉大を訪問

ことしのノーベル物理学賞を受けることになった梶田隆章さんが、31日、母校の埼玉大学を訪れ、同窓生らに「学問の入り口である学部の時代を埼玉大学で過ごせたことに感謝したい」と母校への思いを語りました。

梶田さんはノーベル物理学賞の受賞決定後初めて、さいたま市桜区にある母校の埼玉大学を訪れ、同窓生や大学の元教員らおよそ130人に大きな拍手で迎えられました。

梶田さんは、学生時代に所属していた弓道部の学生から花束で祝福を受けたあと、山口宏樹学長から優れた業績を挙げた卒業生などに送られる「埼玉大学フェロー」の称号が贈られました。
 

このあと、あいさつで「大学の学部は学問の入り口だと思います。その時代を埼玉大学で過ごせたことに感謝したいです」と母校への思いを述べました。そのうえで、「称号を頂き身に余る光栄です。今後、埼玉大学の発展のために微力ながら貢献していきたいです」と今後の抱負について話していました。(NHK)

 
<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>

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