20118 強行突破だけが能ではない   古沢襄

もう一〇数年以上も前のことだが、共同政治部のOBで安倍晋太郎氏の秘書だった清水二三夫さんの葬儀が東京で行われた。

安倍晋太郎氏も亡くなっていたので、夫人の洋子さんや佐藤元首相の首席秘書官だった楠田實氏、清水さんの親友だった日経政治部の大日向一郎氏、共同政治部OBの丸山昌夫氏など葬儀に参列する人は限られていたが、岸信介元首相や佐藤元首相、安倍晋太郎氏に近い人ばかりだった。

帰途、大先輩の丸山昌夫氏と一緒に新宿にでた。丸山氏から「岸が松野鶴平をしっかり掴まえていたら、六〇年安保の様相も変わっていた」ときいていたので、岸と鶴平のことを聞きたいと思っていた。

新宿の地下街で天丼をご馳走して近くの喫茶店で小一時間丸山氏から話を聞いた。現役時代には丸山氏からご馳走にばかりなっていたので「君から奢られるのは初めてだな」と笑われたが、人のいい丸山氏は快く昔話を語ってくれた。

松野鶴平・・・いまの松野頼久の祖父だが吉田元首相のかくれた政治指南番といわれた人物。岸さんはこの鶴平に知恵を借りている。

昭和三〇年の保守合同の前の選挙で、吉田自由党に拮抗する日本民主党は185議席、吉田自由党は振るわず112議席。日本民主党幹事長は岸。

この選挙で社会党も左右合わせて156議席に躍進した。これに危機感を抱いた岸信介と三木武吉は保守合同を画策したが、新党の総裁をめぐって、民主党の鳩山総裁と自由党の緒方竹虎総裁が譲らなかったので、新党構想は暗礁に乗り上げた。

岸さんはお手上げのていで幹事長室にいたのだが、岸派担当の丸山氏が「松野鶴平が緒方氏とは旧知の仲だから鶴平の知恵を借りたら・・」と言ったところ岸さんは「僕は鶴平をよく知らない」。

そこで丸山氏が岸さんの”お使い”で松野氏の知恵を借りることになった。

松野鶴平は「総裁代行委員制」をとって、鳩山を政務担当委員、緒方を党務担当委員とする折衷案を示した。この鶴平案で暗礁に乗り上げていた保守新党が動きだした。

岸さんは「松野の行動力はたいしたものだ。稲光りのように光ってみえた。勉強になったよ」と丸山さんに述懐している。もっとも代行委員には大野伴睦も色気を示し、三木も含めて四人の代行委員制となった。

保守合同で誕生した自民党の初代幹事長には岸信介。鶴平の政治力を知った岸さんは松野氏を参院議長として遇しが、次第に松野鶴平を自分の”政治指南役”にしたいと考えるようになった。

しかし、もともとが吉田ワンマンの政治指南役だった松野鶴平。「岸が鶴平に惚れ込んだらしい」と永田町情報が流れると、川島正次郎が反発、岸側近からも異論が出た。

それが表面化したのは警察官職務改正法案(警職法)の処理をめぐった党内の確執。川島らは「どうせ野党は反対するのだから・・・」と数の力で強行突破を狙い、岸さんはそれに乗った。

松野参院議長は「警職法案を成立させようとすれば、警官隊を呼ばなければできない。党が公約した法案八件がすべて審議未了になる。公約でない警職法案を通すことはできない」と岸さんに伝えた。

参院議長が警職法案の本会議上程を拒んだのだから、岸さんも納得して法案は審議未了で廃案となった。

安保改定の前哨戦となった警職法案。それが生かされずに六〇年安保国会に突入し、岸さんは強権政治の張本人となってしまった。その時の自民党幹事長は川島正次郎氏。

さて岸さんの孫・安倍首相は、この故事をどうみているのだろうか。

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