ベトナム戦争のさなかに台湾の軍事視察で日本人記者団が台北に派遣された。団長は毎日政治部次長の日野氏、幹事は共同政治部外務省担当の私。
すでに韓国は皆兵師団をベトナムに派兵していたので、蒋介石の国府軍がベトナム派兵するとの観測が流れていた。
とはいえ大陸反攻を呼号していた蒋介石が虎の子の国府軍をベトナム派兵するか疑問も持たれていた。折から旧日本軍の将星たちが蒋介石の招きで台湾に渡り、国府軍の軍事訓練に当たっているとの公安情報も流れた。
下田外務次官に事の真偽を確かめたが「聞いていません」。これは、やはり台湾で確かめるしかない。だが、台湾は蒋介石の長男・蒋経石国防部長が完全な特務・公安体制を敷いていて、渡台した日本人記者団も監視されていた。
ここは、やはり蒋介石と親密な岸元首相の手を借りて、台湾上層部に食い込むしかない、それがまた岸記者だった私が訪台記者団の”総秘書長”(台湾側の呼称)に推されたのだろうと遅ればせながら気がついた。
蒋介石については両説がある。一般的にいわれているのは、日本が無条件降伏した時に蒋介石は「以徳報怨」を8月15日のラジオ放送で告示して、日本軍将兵と居留民を無傷で日本に送還した。報復行動を戒めたのである。
当時、中国全土に展開していた日本軍は二百万。私は武装解除されいたとはいえ、一日も早く日本に送還する必要に蒋介石が迫られいたという見方をとる。毛沢東率いる共産軍との内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ蒋介石は、台湾知識人を二・二八事件で大量虐殺し日本語の使用を完全に禁止している。そこには「以徳報怨」のかけらもない。
■二・二八事件(ににはちじけん)=1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。
1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。
しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。(ウイキペデイア)
■柔らかい手の蒋介石 古沢襄(2006.11.14 Tuesday name : kajikablog)
共産・中国が国連に加盟する前の台湾に行ったことがある。訪台記者団の総秘書長という訳が分からない役目を引き受けて、台北から軍用機で金門島に渡り、そこから左営の海軍基地で大陸に潜入するフロッグマン部隊を視察、南部の第二の都市・高雄に行ってアメリカの第七艦隊をみた。
折からベトナム戦争の最中。蒋介石の国府軍のベトナム派兵が焦点となっていたので、現地視察をするのが目的であった。日本の支那派遣軍の元高級将校が蒋介石の招きで台湾に密かに渡り、国府軍の軍事指導に当たっているといわれていたので、それを探る目的もあった。
高雄から台北まで台湾の特急列車に乗ったのだが、中間点の台中で下りてバスで景勝の地である日月潭(じつげつたん)まで行った。
そこで蒋介石と面会した。私たちの一人ひとりと握手した蒋介石の手が柔らかった記憶が残る。一九六八年のことである。四年後の一九七二年七月に蒋介石は心臓発作を起こして倒れ病床に臥したが、一九七五年四月五日に他界している。
ベトナム派兵について蒋介石は「軍事三、政治七が、わが国の立場」と明言を避けたが、このあと台北で息子の蒋経石国防部長と会ったら「光復大陸が国是」と言った。
いずれもはっきりベトナム派兵を否定したわけではない。台湾の国土のいたるところに光復大陸の大看板が立てられていた。光復大陸とは大陸反攻のことである。
蒋介石も蒋経石も明言を避けたのだが、台湾各地の軍事基地をみた私にはベチナム派兵の緊張した動きが感じられなかった。
旧友で高雄の民衆日報のオーナーである李哲朗に私の判断を言ったところ「蒋介石の虎の子軍隊である国府軍をベトナム派兵に使う筈がない」と派兵に否定的であった。
しかし文春文庫「蒋介石」を書いた保阪正康氏は「蒋介石はベトナムへの義勇軍の派遣を(アメリカに)申し入れたが、アメリカはそれは中国を刺激するとの判断からまったく応じなかった」としている。
米側資料から、その結論を得たのであろう。一九七一年に米中和解が成り、その年の十月国連総会で「中華民国を(国連から)追放し、中華人民共和国を招聘する」アルバニア案が可決されている。
歴史を振り返ると民主党のケネデイ大統領の下で始めたベトナム戦争は、泥沼化の様相をみせ始めていた。共産・中国と事を構える余裕はない。撤兵の選択肢しか残されていなかった事情は、今のイラク情勢と似ている。
一方、台湾は政治、外交、軍事、経済の面でアメリカに依存してきた。そのアメリカは一九七二年二月に共和党のニクソン大統領が北京訪問をして、毛沢東と歴史的な会談を行って「中国は一つであり、台湾は中国の一部だという(中国の)認識を理解する」という北京声明をだしている。この内容は蒋介石には事前に知らされていない。折りしも中国は一九六四年に原水爆実験に成功している。
歴史は繰り返すかもしれないし、中国が台湾の武力解放に踏み切った時に、アメリカが米中衝突を覚悟で、台湾防衛に回るのか疑わしい。日本はアメリカ頼みだけで、すべてを預けるのではなくて、自立の道も用意しておいた方が賢明ではないか。(杜父魚ブログ)
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