一九六八年、国府軍のダグラス輸送機で金門島に渡った。金門島は旧日本軍の根本博(ねもと・ひろし)陸軍中将が密かに渡台し作戦指導した島である。
折から上陸作戦を敢行した共産中国軍と二昼夜にわたる戦闘の末、中国軍を全滅させている。
これについて根本元中将は、その行動を「義に報いるに義を以てす」と述べている。蒋介石が二百万の支那派遣軍を「以徳報怨」と布告して無傷で日本に送還したことに対して「義に報いるに義を以てす」で応えた。
一軍人の信念としては首尾一貫したことであろうが、平和憲法で戦争放棄した日本にとって困った根本元中将の行動だったから、久しく秘匿されてきた。そのため全貌が掴めずに毀誉褒貶の渦のまま忘れ去られてきたのが真相である。
私が行った金門島は一日置きに国府軍と共産中国軍が砲撃していた。何とものどかな戦場風景で拍子し抜けしたのが実感であった。
この根本中将は敗戦時には駐蒙軍司令官。モンゴルに侵攻したソ連軍は停戦に応じないで攻撃を続け、在留邦人四万人が殺戮の危機に瀕した。
根本駐蒙軍司令官は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と命令を下している。
すさまじい白兵戦が三日三晩も展開され、在留邦人四万人を乗せた列車と鉄路を守り抜いた。日本軍の必死の反撃にソ連軍と中国共産党の八路軍は戦意を喪失し、攻撃を断念している。
天津に脱出した在留邦人たちは、蒋介石総統の国民政府軍の支配下で全員が引揚船で帰国することができた。
満州では関東軍は総司令部の軍命令でほとんどの部隊がソ連軍の降伏し武装解除された。武装解除された関東軍には在留邦人を守る力がない。国境地帯から徒歩で避難する在留邦人たちが、匪賊化した満人たちに襲撃され多くの犠牲者を出す悲劇に見舞われている。
在満州の邦人を救い得なかった関東軍の降伏は、あまり論じられなかったが、モンゴルの駐蒙軍の行動とはあまりにも違いがある。
その根本中将は、蒋介石総統が敗戦時の日本軍捕虜に対し人道的に対応し、国に賠償金を要求しなかった事に深く感謝していた。蒋介石総統は八月十五日の対日戦争勝利の告示をラジオ放送で「怨みに報いるに怨みをもってせず」と布告した。
「老子」に「怨みに報いるに徳を以てす(以徳報怨)」の言葉がある。蒋介石総統は中国の古い教えをひいて、中国本土に展開していた二百万の日本軍捕虜に報復行動をすることを戒めた。
反対なのはスターリンのソ連軍である。在満州の関東軍五十七万五千人は武装解除後にシベリアに連行され、シベリア鉄道の復旧工事などで強制労働を強いられた。このために六万四千人の将兵が死亡している。
根本中将は敗戦後の1949年、台湾へ渡って、金門島における戦いを指揮している。国共内戦で劣勢に立たされた蒋介石総統のために渡台して、日本軍捕虜を無傷で送還してくれた恩義に報いる行動に出ている。「義に報いるに義を以てす」ということであろう。
1967年、私は台湾を訪問して日月潭で静養中の蒋介石総統に訪台記者団の一員として面会している。一人一人に握手してくれた蒋介石総統の柔らかい手が印象に残る。だが、私の心は複雑であった。
この柔らかい手が二百万の日本軍捕虜を無傷で送還してくれたが、その手で台湾大虐殺といわれる二・二八事件(1947年2月28日)を起こしていた。二・二八事件で約二万八千人もの台湾知識人が殺害・処刑されている。
この時に根本中将が実戦指揮した金門島に一泊二日で行った。台北市郊外の松山空軍基地からダグラス双発輸送機に乗って、中国空軍のレーダーに捕捉されないように、海上300メートルという超低空飛行で金門島の軍用飛行場に着陸。案内役は日本の陸軍士官学校(三十九期生)をでた荘南園大佐だった。
荘大佐に根本中将のことを聞いたが知らないという。しかし中国側の資料では、実際に作戦指導に当たったのは、根本中将だと断定している。また蒋介石総統が根本中将を頼りにしたことについて、米側は必ずしも好意的でなかったと暴露している。
事実は第7代台湾総督、明石元二郎の長男・元長氏や台湾の共産化に危機感を抱いた「東亜修好会」メンバーの手引きによって根本中将は台湾密航に成功していた。
台湾では「林保源」を名乗り、中国共産党の人民解放軍との最終決戦となった金門戦争(古寧頭戦役)に参戦。作戦立案が奏功し、二昼夜にわたる戦闘の末、人民解放軍は全滅した。
蒋介石総統と根本中将とはその後も交流が続いた。最近米国で公開された「蒋介石日記」にも根本中将に関する記述があり、蒋介石総統が心から信頼していた様子が読み取れる。
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