■今回の大統領選は国の根幹を問うている
熱気を増す米国大統領選挙を首都ワシントンで眺めていると、この国の指導者選びの被虐的なまでの徹底さに改めて感嘆させられる。民主、共和両党の多数の候補者がたがいにこれでもか、これでもかと攻めあって格闘する。気の遠くなるほど長い期間、広大な各地の有権者に訴え、メディアに取り組み、対抗馬を倒していく。
その長期の争いはボクシングをしながらのマラソンを連想させる。限りなく民主的そして透明な、世界に冠たる直接選挙制といえよう。ただしその間、超大国の内政も外交も機能を落とすという欠点もある。
私が米国大統領選に初めて接したのは1976年秋だった。現職の共和党フォード大統領が挑戦者の民主党カーター候補と公開討論をして、「ソ連の東欧支配なんてありませんよ」と失言したのを目のあたりにみた。一緒にテレビの前にいた若い米国人男女が一瞬、驚いて黙りこくってしまったのをよく覚えている。後に致命的な失言とされた一言だった。
だがその選挙で勝ったカーター氏も4年後の共和党レーガン候補との論戦では「娘のエイミーも核兵器の管理が重要だと話していました」という発言で人気を一気に落とした。12歳の少女の言を後生大事に紹介する非常識を責められたわけだ。
他の年にも「致命的な一言」がよくあった。候補者の言葉の責任だった。だが今回はトランプ候補の発言には暴言、失言が多いが、人気の下降にはつながらない。明らかに今回の特徴であり、その理由は多々あるだろう。
さてこれまで取材してきた10回近くの大統領選挙の共通項はやはり保守主義とリベラリズムというイデオロギーの対立だった。内政では民間や個人の自由を優先し、政府の役割を抑える「小さな政府」と、政府の規制や福祉を優先する「大きな政府」との対立である。外交では米国の価値観の投射や軍事力の抑止効果をどこまで重視するかが分かれ目となる。
だが今回の選挙では保守とリベラルの対決はより屈折し、尖鋭となり、国のあり方の根幹へと踏み込んだ観がある。
保守主義に傾く側にとってはオバマ統治の7年余でアメリカはアメリカらしさを減らし、歴史と伝統に立つ国家としてのアイデンティティー(自己認識)を失いつつあるということになる。
保守系の大手シンクタンク「ヘリテージ財団」は今回の選挙を「200年の歴史を持つ立憲共和制の合衆国として多民族同化の道を続けるか、全体の同化を排し、競合する分離した多様な集団が並ぶバルカン的な連合体へと進むか、という選択」と評していた。
新参の移民群にも固有の文化や価値観の保持を許し、アメリカ合衆国への「愛国主義的な同化」を強いないのがオバマ的統治なのだという。民主党候補がまた勝てば、そのオバマ路線がなお続くという懸念でもある。
だがその懸念にはもちろん米国という国家の変容の現実こそが新しい指導者や新しい統治を必要とするのだという反論がある。
いずれにせよ、まさにアメリカという国の形を問う選挙のようなのだ。(産経ワシントン駐在客員特派員)
<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>
コメント