20364 草刈正雄が演じる真田昌幸が面白い   古沢襄

NHKの大河ドラマ「真田丸」が好評の中に推移している。主役の堺雅人が演じる真田信繁(幸村)よりも草刈正雄が演じた父親・真田昌幸の方がいまは主役を食う風格があって面白い。

昌幸は父親の幸隆(幸綱)の三男。武田信玄・勝頼の二代に仕え、武田氏滅亡後に自立している。

信玄は昌幸の才覚を見抜いていたという。大河ドラマでも「昌幸は知略軍略に優れ、豊臣秀吉に油断ならない『表裏比興の者』と言わしめた天才武将」と紹介されている。

『表裏比興の者』とは「二枚舌」を使う油断できない武将ということだ。真田のような小国が生き延びる術といえよう。草刈正雄が演じる昌幸は、老獪さをあますところなくみせてくれる。

信州・上田中学(旧制)に四年いたので、六文銭を旗印にした真田には関心がある。だが真田の出自については諸説あって謎が多い。

■小男だが全身智恵の塊の”真田三代”(2011.11.05 Saturday name : kajikablog)

この一ヶ月間ほど真田幸隆、昌幸、幸村の”真田三代”の資料を読み漁っている。真田一族が活躍した信州の上田で少年時代を過ごしたので、大人になってからも機会があれば、真田文書をかき集めてきた。しかし調べれば調べるほど、真田の出自は謎に包まれている。資料を再読すると、以前は気がつかなかったことが分かる楽しさもあるのだが・・・。
 

少年時代には真田幸村が子供たちの英雄だった。猿飛佐助など真田十勇士の漫画本や講談本を端から読み漁ったのだが、いまでは父親の真田昌幸の方が図抜けた戦国武将だったと見方が変わった。初代の真田幸隆は調べれば調べるほど謎の出自に包まれている。

幸村は落日の大阪城に立て籠もって、徳川家康の軍勢を迎え討ち、華々しく討死した悲劇の英雄だった。だが調べるうちに死に場所を求めて大阪城に入城した姿が浮かびあがる。

大阪城が落城して家康の東軍が得た首だけでも一万四千余にのぼったのだが、城方の大将分で戦死した者は意外と少ない。4月29日に塙団右衛門、5月6日に後藤又兵衛、薄田隼人、木村重成が討死、7日の決戦で真田幸村、御宿監物が戦死、翌日の秀頼に従って殉死した大野治長などを除けば、多くの武将が城から落ちのびている。

そんなことから幸村は秀頼に従って薩摩に落ちのびたという噂が流れ「花の様なる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、 退きものいたよ加護島へ」と京童(わらべ)が囃し立てた。平戸商館長リチャード・コックスが翌年の1616年2月に英東インド会社に送った手紙には「ある者は、秀頼が逃れて薩摩あるいは琉球にいると信じている」と記した。

「真田三代記」には、幸村は薩摩に逃れた翌年、長年の辛労がたたって何度も血を吐いて、秀頼らの手厚い看護のなかで死んだと伝えている。この「真田三代記」は江戸時代中期の作で、真田幸隆、昌幸、幸村の三代の事績を293節で述べているが、幸村の大阪の陣における活躍が主題。だから幸村の影武者穴山小助が幸村と称して討死し、城内では木村主計頭が秀頼の身代わりとなって自決したことになっている。

いずれも荒唐無稽の”お話”なのだが、江戸や大阪の人々から広く愛読されて、歴史小説家の小林計一郎氏は「幸村の名を天下に轟かせた本」と評価している。大正年代に入って大阪で発行された25銭の立川文庫が「猿飛佐助」を出したら、少年層から熱狂的な支持をうけて百万部を売り上げた。

多くの人は幸村を眉目秀麗な戦国武将と思っている。だが本当のところは、幸村も昌幸も小男だったらしい。「真田左衛門は四十四、五歳にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸ほどの傷跡これあり。小兵成る人にて候」(長沢聞書)という記録が残っている。大阪入城の頃は、ひげも白く、歯は抜けて、病身だったという。

父親の昌幸も小男で見栄えのしない男だったという。秀吉の前にでた昌幸を「そちは真田の親の方か、子の方か」と尋ねた記録が残っているが、真田三代はいずれも見栄えのしない小男、それが全身これ知謀の塊というのだからおもしろい。

信濃国は甲斐の武田と越後の上杉の騒乱に巻き込まれた山国。真田の根拠地となった上田盆地も例外ではない。そこで生きのびるためには、智恵のかぎりを尽くして領地を守らねばならないことから、真田三代のような謀将のキャラクターが育ったのだろう。

昭和19年から敗戦をはさんで四年間、旧制上田中学に席を置いたのだが、あまり変哲のないこの土地柄から真田三代が生まれたのが不思議に思えた。

真田の兵は日本一と言われた。だが戦争中の体験からすると、東北や九州の兵が日本一の強兵というのは分かるが、信州の松本連隊が日本一の強兵という印象はない。

しかし戦場での真田の兵は、いずれも前向きに倒れて絶命し、逃げて後ろから斬られて死んだ者はいない。このような真田の兵を育てた真田三代の統率力が見事としか言いようがない。

真田の名を天下に轟らしたのは、徳川の大軍を上田城に迎え討って、二度にわたって退けた勝利であろう。

家康は天正13年、7000の大軍で上田に侵攻したが、昌幸は上田城に籠もり、総構まで徳川軍を引き入れてから城内から鉄砲の一斉射撃をかけた。さらには入り組んだ城下町の辻々に柵を食い違いに組んで、逃げる徳川軍を矢、鉄砲で散々に射すくめた。

追い詰められた徳川軍は折から増水していた神川に追い落とされて溺死者が続出している。「上田軍記」によると昌幸は甲冑もつけずに櫓にあがって碁を打つ余裕をみせたという。かくて徳川の上田攻めは惨敗に終わった。

二度目の上田攻めは慶長5年、関ヶ原の合戦に向かう別働隊・徳川秀忠軍一万五千が上田城を囲んだ。昌幸側の兵力は三千八百。昌幸は神川の上流は堰き止めて、水の勢いを減らし徳川軍が川を渡ってくる頃合いを狙っていた。策士・昌幸らしい戦い方である。神川では天正年間の上田攻めで徳川軍は散々な目に遭っている。

昌幸は幸村を連れて川辺の偵察にでたのを秀忠が見つけて、鉄砲隊に連射を命じた。秀忠側の槍隊が昌幸を追ったが、誘いをかけた真田側はゆるゆると上田城に後退する。

勢いに乗った徳川方はわれ先と神川を渡った。それをみて上流の堰き止めを切ったから神川は増水して溺れるものが続出した。徳川の後軍は川を渡ることが出来ない。

ようやく川を渡った徳川の兵は真田軍の餌食となって死傷者が続出。この合戦の不手際は徳川方でも問題となって軍令違反の罪で旗奉行が死を命じられている。それよりも昌幸の作戦に引っかかり、秀忠軍は貴重な数日を上田攻めで費やし、関ヶ原の合戦には間に合わなかったことの失態の方が大きい。、

上田市立博物館に真田昌幸像が展示されている。

昌幸は武田信玄の側近・小姓として仕えた。信玄は昌幸の才覚を高く評価していたという。小男で風采のあがらない昌幸を甲斐国からの譜代重臣と変わらない扱いをして重用した。三男だった昌幸は信玄の命で武藤姓を与えている。甲斐の名門・武藤家が絶家となっていたのを昌幸に与えた。「甲陽軍鏡」には武藤喜兵衛昌幸の名がみえる。

武藤喜兵衛昌幸が真田昌幸に戻ったのは、長兄の真田源太左衛門信綱と次兄の真田兵部昌輝が天正三年の長篠城外設楽原で信長・家康連合軍の鉄砲一斉射撃を受けて揃って戦死してしまったことによる。

だが昌幸は戦国最強の騎馬軍を擁した武田家の命運が尽きるのを冷徹な眼で見ていた。

天正10年に勝頼が天目山近くで自刃して果てたが、その前に昌幸は二度にわたって北条氏に帰順したい旨の申し入れを行っていた。その一方で織田信長に対しては馬を贈って臣従の意をあらわした。

さらに家康とも繋(つなぎ)をとる策謀をみせた。このあたりは昌幸の本領が発揮されている。昌幸の本領といえば長男の信幸を徳川方、次男の幸村を大阪方に配したことであろう。幸村は大阪城外で討死して果てたが、信幸は徳川家に忠節を尽くしてお家の安泰を図った。信幸は「幸」の字を憚って、信之に改名する気の使い方をみせた。

さて真田三代の初代となる真田幸隆の出自は謎に包まれている。江戸時代に作られた真田系図は、滋野一族の盟主といわれた海野棟綱の直系の子孫としているが、その真否は定かでない。

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コメント

  1. 大橋圭介 より:

    大河ドラマをたのしんでますが、古さんのこの解説で楽しさが増します。ありがとうございます。

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