支那、Chinaの語源は諸説があるが、通説では中原初の統一王朝秦(?音: Qin, 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するという。
支那は歴史的な由来語の筈だが、日本の敗戦で国連の代表権を保持していた台湾の蒋介石総統が「中国」の呼称を用いるよう日本の外務省に求めた。光復大陸を呼号していた蒋介石は大陸反攻が国是だったから、共産中国に先立って中国の呼称を用いる政治的な必要性があった。
国連加盟の国々がChinaの呼称を使っているのに対して、ロシアはキタイの用語を使う。
■「キタイ」と「チャイナ」 古沢襄
ロシアに行くと中国のことを「キタイ」と呼ぶ。モンゴルも「キタイ」だ。欧米では「チャイナ」、トルコは「チン」というそうだ。戦前の日本は「支那」と呼んでいた。いずれも蔑視用語でもなければ差別用語でもない。支那大陸の三〇〇〇年の歴史から取った呼称だからだ。
支那人が自国を中国と称し、中国人だと胸を張るのは、愛国心の発露だから他国がトヤカクいうことではない。
世界地図の真ん中に中国があって、その中心が首都・北京だと思っている。もっとも、これを最初に唱えたのは蒋介石の中華民国政府だった。日本が敗戦後の1946年に中華民国の要請を受けて、支那を中国と呼ぶことにして、外務省通達がでている。戦勝国の中華民国の要請だから、占領下に置かれた敗戦国日本としては従うしかなかった。
国共内戦に敗れてタイワンに逃げ込んだ蒋介石の中華民国は、しばらくは国連で中国を代表する唯一の常任理事国だったから、いつの間にか戦後日本では支那の用語が廃れ、中国の用語一色になった。中国の呼称は、敗戦の落とし子だといって良い。
だが江戸中期以後、敗戦まで使ってきた「支那」の呼称を政治的な思惑で捨ててしまうのは如何なものか。支那外交史を専攻してきた私などは、そろそろ「中国」と「支那」の用語を併用する時期にきたと思っている。戦後六十一年も経ったのだ。いつまでも蒋介石に義理立てする必要はあるまい。
中華人民共和国では国語辞典「漢語大詞典」の中で「支那」は「秦」の音の訛りであり、古代インド・ギリシャ・ローマ・日本などがわが国を呼ぶ名であると書いてある。為政者は蒋介石と同じように「中国」の呼称にこだわるが、中国国内には「支那」を差別的呼称とする一般的な通念は存在していない。
「漢語大詞典」がいうように支那の語源は欧米の「チャイナ=CHINA 」と同じくしている。紀元前221年に始皇帝により中国を統一した「秦(しん)王朝」からきた用語。
国語辞典の「大辞林」(三省堂)によれば、しな【支那】= 外国人が中国を呼んだ称。「秦 しん」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したものとしている。
また、明治二十二年発行の「言海」では「支那人」という項があって、次のように「支那」という語の由来を解説している。
シナ-ん (名) |支那人| 〔支那、或ハ、震旦トモ記ス、印度ヨリ稱シタル名ニテ、文物國ノ義ナリと云、舊約全書ニSinoaトアルモ是ナリトゾ、或云、秦(シヌ)ノ威、胡(エビス)ニ震ヒシカバ、其名ヲ印度ニ傳ヘタルナリト〕唐土(モロコシ)ノ人、カラビト。唐人(タウジン)。
これらから漢字の「秦」が、梵語(サンスクリット語、インドの言葉)に入り、その言葉が仏典によって、中国に逆輸入された時、中国人自身が「支那」と音をあてたことになる。
ロシアが中国を「キタイ=Китай)」と呼ぶのは、四世紀ごろから北アジアのシラ・ムレン河(西遼河上流)に現れ、十世紀の唐滅亡に乗じて巨大帝国を作った契丹(キタイ・カセイ)の名に由来している。
ロシアにとって脅威となったのは、漢民族よりも北アジアから中央アジアを疾駆する草原の遊牧民族の侵略であった。契丹は満州の女真族国家・金によって滅ぼされ、金もジンギス汗のモンゴルによって征服されている。ジンギス汗の死後、ロシアが怖れていたようにモンゴル騎兵が怒濤のようにロシア平原に侵略してきて全土を征服された。
ロシアにとって「タタールのくびき」と称するモンゴル圧政の歴史は、十三億の人口に膨れあがった中国に対する潜在的な恐怖感と重なり合う。ロシア人が「キタイ」という時には、その微妙な感情がでることがある。蔑視どころか歴史的な警戒感が滲みでる「キタイ」の用語ではないだろうか。
支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作”Nuvus Atlas Sinensis”では、中原初の統一王朝秦(?音: Qin, 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされる。
衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。これが一般的な通説とされるが、戦前の日本の地理学者の藤田元春などは反対説を主張している。その諸説によると交易品であった絹糸に由来するもの、民族名である「チャン族」あるいは、「インドから見て辺鄙で遠いところ」との意からきたともいう。
なお、このシナの発音が西洋に伝わり英語の"China"フランス語の"Chine"などの語源ともなったといわれている。紀元2世紀前後にはインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいた。この表記について徐作生は、1995年に雲南省西部の都市「支那城」に由来するという説を発表している。インド側からポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫してChinaとよぶ。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。
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