20510 祈りの民族の本質は支配されない   古沢襄

日本は”祈り”の民族。天皇、皇后両陛下の祈りの旅が国民から共感をもって迎えられている。

敗戦でGHQによる占領政策で支配された日本だが、祈りの民族の本質は支配されなかった。

歴代の天皇家は元旦の朝四時くらいから「四方拝」という祭祀を執り行ってきた。GHQも干渉できなかった宮中行事である。

天皇陛下がただ一人で行うもっとも重要な祭祀。「四方拝」は飛鳥時代から連綿と続いている。

真冬の寒さの中で、早朝から冷たい畳の上に正座をされ、たったお一人で長時間にわたり、東西南北の諸神に「豊作」「国民の平和と安寧」のお祈りをする。

祈りは天皇家だけのものではない。日本民族に共通する特性といえよう。それは古事記、日本書紀の時代から連綿と続いていると言っていい、

日本書紀は皇室の正史の扱いを受けてきたが、古事記は日本古来の神代からの神話の世界を伝えている。

■天翔けるアニミズムの馬になってほしい(2014.10.17 Friday name : kajikablog)古沢襄

富士山に冠雪をみた。駆け足で冬がやってくる。ふっと来年はどんな年になるのだろうか、と考えてみる。

「平成26年 九星開運暦」だと来年は「午(うま)年」。十二支で午年は上昇していたものが下降線を辿るとされている。池田元首相は占いごとが好きな政治家であった。政治の世界の一寸先は闇だから、占いに頼ったのであろう。

市場原理主義、効率主義の仕組みがそろそろ可笑しくなる年になると私は考えている。西欧的な合理主義の世界が音を立てて崩れるという予感はベトナム戦争の直後からあった。

では西欧的な合理主義が崩れた後には、どういう世界が生まれるのだろうか。

米国やカナダの研究者が東洋的なアニミズムに注目して、一九九二年、カナダのヴァンクーヴァーで米国、カナダ、日本の研究者が会議を開いて、国際コンファレンス「日本文学に見る自然と自己」を討議している。

自然の力を怖れるアニミズムは、科学万能の思考が行き詰まったところから再出発した。とくに日本文学におけるアニミズム傾向・・・志賀直哉、泉鏡花、川端康成、三島由起夫の作品が欧米の研究者から読まれていると指摘した。

午年がアニミズムの年になるのか分からない。天翔けるアニミズムの馬になってほしいのだが・・。

■三島由紀夫とアニミズム(2014.01.04 Saturday name : kajikablog)古沢襄

正月早々に三島由紀夫がノーベル文学賞の候補になっていたことが話題になっている。これは一九六三年のことだが、その五年後に川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞した。

私はかつて「長い歴史と伝統を有する日本文学について、米国やカナダの研究者が”日本文学に流れるアニミズム”として、志賀直哉、泉鏡花、川端康成、三島由起夫の作品を盛んに翻訳して、研究テーマとしている」と紹介したことがある。

一九九二年、カナダのヴァンクーヴァーで米国、カナダ、日本の研究者が会議を開いて、国際コンファレンス「日本文学に見る自然と自己」が討議された。日本のメデイアはほとんどが無視した。無視というより理解が届かなかったというのがほんとうのところであろう。

カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学の鶴田欣也教授は「科学万能の思考が行き詰まり、日本の泉鏡花にみられるアニミズム思考が近来、欧米で研究の対象となったのは故なしとしない」と言った。アニミズムは原始宗教の段階から停止せずに自然の力を怖れる新しい理念として生き延びているとした。

カナダ・ヨーク大学のテッド・グーセン助教授は西欧的な人間中心主義と東洋的な自然中心主義という捉え方をした。

西欧思想の基本概念は、精神と肉体、生命を有するものと有しないもの、人間と人間でないものといった判然とした分類法を用いてきた。

さらに科学的な合理主義の台頭によって、あらゆる自然的な存在は「単なる事象」とされて、人間の自我を最高の価値としてきた。この東洋的な自然中心主義にグーセン助教授は着目している。

文明民族でありながら、日本人には霊魂とか霊性意識が他国よりも色濃く残っている。小林秀雄は「大陸から伝来した漢字に対抗する手段として、古語の持つ力を強調しようとする意図が働き、古語に秘められた言霊が残った」と解説した。

自然を怖れ、大切にする心が現代に生きる私たちにとって忘れてはならない”真理”なのではないか。ノーベル文学賞の候補だったと騒ぐのは、あまりにも浅薄な大衆心理だと言いたい。

■アニマを信じる文明国家・日本  古沢襄

ラテン語でアニマ(anima)という言葉がある。霊魂・生命といった意味である。このアニマから発したアニミズム(animism)の語は様々な霊魂に対する信仰を指している。

19世紀にイギリスの宗教・人類学者E・B・タイラーが唱えた学説だが、タイラーは死や病気、幻想や夢などの経験から、身体には霊魂があって、それが自由に離脱することを類推している。

これは未開社会に顕著であって、宗教文化の原初的形態であるとした。イギリス人であるタイラーは、アニミズムは、未開民族の宗教であって、精霊崇拝は多神教に発展し、一神教になるという”進化主義”を唱えている。

キリスト教が先進的なものという欧米的視点が根底にあって、アニミズムは原始的な未開社会のものであると考えである。

ところが一神教の世界はキリスト教だけでない。イスラム教も一神教であり、中世の十字軍のように宗教戦争でぶつかり、現代ではキリスト教とイスラム教世界が激しく対立している。

いまではタイラー学説の進化主義よりも、霊魂を信じることは宗教の基本的な観念とする説が多い。もちろん無宗教の世界もある。

ひるがえって日本は多神教の世界に区切られる。13日から入ったお盆の季節は、墓参りの風習を伴うから、仏教の行事と認識されているが、仏教の教義で説明できない部分がある。日本古来の古神道における先祖供養の儀式や神事の影響もある。お盆の起源も分かっていない。八世紀ごろから夏に祖先供養を行うという風習が確立されたと考えられている。

現代人は霊魂の存在や、祖先供養の心が希薄となっている。戦後はその傾向が顕著なっているが、都市生活者の間でもお正月には神社参拝をしたり、マイカーにお飾りをつけたりする。お盆の季節になれば、高速道路や新幹線は帰省ラシュで混雑する。

高度のハイテク社会で生きているようだが、無意識にアニミズムの伝統を引きずっている。文明民族でありながら、言霊意識が共存して継続している国なのである。盆踊りのルーツは、霊魂や怨霊を鎮める行事から発している。東北の夏祭りが盛んなのは、われわれ日本人が伝統文化の国にいることを認識する機会だといえる。

ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)は、キリスト教の一神教支配から逃れて、東洋に新しい心の天地を求めたことで知られる。

西田幾太郎は『ハーン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた。氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である。』と述べている。

この傾向は、長い歴史と伝統を有する日本文学について、米国やカナダの研究者が「日本文学に流れるアニミズム」として、志賀直哉、泉鏡花、川端康成、三島由起夫の作品を盛んに翻訳して、研究テーマとしている。一神教世界の中で日本文学が注目されているのは興味深い。

■泉鏡花とアニミズムの世界  古沢襄

以前にも書いたのだが、米国とカナダで日本文学の泉鏡花、宮沢賢治の研究が盛んになった時期がある。ベトナム戦争の敗北で欧米的な価値観に疑問を持った学者たちが、東洋的なアニミズムの世界に関心を持った背景がある。

そこで研究の対象となったのが、日本文学が持つアニミズム。泉鏡花、宮沢賢治、志賀直哉、川端康成、三島由紀夫の作品が翻訳されて、多くの研究論文が発表されている。

一九九二年、カナダのヴァンクーヴァーで米国、カナダ、日本の研究者が会議を開いて、国際コンファレンス「日本文学に見る自然と自己」が討議された。

アニミズムについてはGHQ(占領軍)が呪詛的な国家主義のバックボーンになっていると、敵視し排除しようとした歴史がある。日本の古典である古事記も危険視された。日本の民主化、米国化する占領政策の障害になるとみたわけである。

軍人の頭では理解できない日本文学の世界だから、やみくもにアニミズムを排撃し、占領下のエセ知識人たちも迎合している。

一九九六年、芥川賞受賞作家の田辺聖子氏が「古事記はすべての日本文学の出(い)できはじめの祖(おや)」「私たちが誇る民族遺産」と激賞した時には、私たちは新鮮な衝撃を受けたものである。それまでは古事記は”偽書”だという学説まで現れていた。

だから米国やカナダの研究者が東洋的なアニミズムの世界に着目したことなど知るよしもない。戦後の浅薄な進歩的文化人がまだ幅をきかせていた。一九九八年に発刊した「沢内農民の興亡」で私は初めて「アニミズムと泉鏡花」の一項を起こし、古事記についてもかなりのページを割いたつもりでいる。

だが、私が「アニミズムの世界」を本格的に書いたのは二〇〇七年だった。それも「アニミズムは戦前回帰の呪術的思想として嫌われる気すらする。欧米的な自我拡張の世界で呻吟の時代から脱することはできないと悲観的にならざるを得ない」と率直な気持ちをぶつけた。

以後、「先住民の参加色濃いバンクーバー五輪開会式(2010.02.13 Saturday name : kajikablog)」「 霊性の時代とアニミズム(2011.05.11 Wednesday name : kajikablog)」を書いてきた。 ゴーデンウイークの間に泉鏡花の作品を再読するつもりでいるのだが・・・。

■アニミズムの世界 古沢襄

戦後日本が忘れ去っているが、逆に欧米で注目を浴びているものにアニミズムの世界がある。一九九二年、カナダのヴァンクーヴァーで米国、カナダ、日本の研究者が会議を開いて、国際コンファレンス「日本文学に見る自然と自己」を論じた。

アニミズムの言葉はラテン語の「アニマ」からくる。この霊魂を意味する言葉から様々な霊魂に対する信仰をひとつの体系的な学説・アニミズムとしたのが、イギリスの宗教人類学者であるE・B・タイラー。

タイラー学説は、未開民族の宗教が精霊崇拝から発して、多神教や一神教に進化するとした。これに対してアニミズムが低次元の宗教現象と考えるのは間違いであり、むしろ宗教のもっとも基本的観念とする学説が興った。

人間は自分の霊魂(SOUL)とは別の他の霊魂(SPIRIT)に囲まれている。その霊的存在が、世界の森羅万象をあやつっている。生霊、死霊といった人霊のほかに、超自然的な神霊、動物霊などを含めた精霊崇拝に重きをおく考え方。

カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学の鶴田欣也教授は「科学万能の思考が行き詰まり、日本の泉鏡花にみられるアニミズム思考が近来、欧米で研究の対象となったのは故なしとしない」と言った。アニミズムは原始宗教の段階から停止せずに自然の力を怖れる新しい理念として生き延びているとした。

アニミズムは人間、動物、植物、鉱物などがそれぞれの魂を持ち、有機的に共生し、変化流転していて、合理性や知性とは別の人間の感性、本能に訴える力を持っているという。キリストという一つの神に帰依する西欧的宗教観とは異質の自然をすべて神とする多神教の世界なのだが、日本文学は泉鏡花、宮沢賢治の作品がある。

カナダ・ヨーク大学のテッド・グーセン助教授は西欧的な人間中心主義と東洋的な自然中心主義という捉え方をした。

西欧思想の基本概念は、精神と肉体、生命を有するものと有しないもの、人間と人間でないものといった判然とした分類法を用いてきた。さらに科学的な合理主義の台頭によって、あらゆる自然的な存在は「単なる事象」とされて、人間の自我を最高の価値としてきた。

東洋の自己と自然の関係は、仏教や道教、神道の影響によって西欧的な二分法的思考をとらない。中国語でいう「自然」は物質世界の自然ではなくて、宇宙の原理といった精神世界の色が濃い。「自己」は西欧的な積極的な意味を持たず、むしろ精神的な悟りのために克服されねばものとされた。

戦後の日本人はより西欧化された社会で生きている。もともとが古代より多神教の国柄なのだが、戦後はむしろ無宗教に染まった観すらある。そこで行き過ぎた自我がぶつかり合って様々な社会現象すら生んでいるが、是正する処方箋は見当たらない。教育制度を少し弄る程度では解決できない隘路に迷い込んでいる。

ブリティッシュ・コロンビア大学の鶴田教授は、川端康成の文学を「川端は人間のギラギラした自我拡張を嫌った」として、①自我を縮小していこうとする仏教思想②人間を自然と同等に考えるアニミズム③けがれをみそぐ神道・・・が基底にあると分析している。

だがカネとモノを最高の価値観に据えて生きてきた戦後日本人にとっては、あまり心に響かない見解ではないか。逆にアニミズムは戦前回帰の呪術的思想として嫌われる気すらする。欧米的な自我拡張の世界で呻吟の時代から脱することはできないと悲観的にならざるを得ない。

■霊性の時代とアニミズム  古沢襄

「霊性の時代と天皇皇后の祈り (2011/05/10)」の続きになる。1992年のことだが西村肇東京大学教授が「ヒトは必ずしもコトバで考えるのではない。この新しい認識をきりひらくのは、まさにコトバの下手なわれわれ日本人ではないか」と問題提起をしていた。

人間には三つのタイプがあると思う。①モノを扱うのが得意な職人タイプ。②人との付き合いのうまい商人、政治家タイプ。③そしてコトバや観念を扱うのがうまい教師、法律家タイプ・・・と分類してみせた西村氏は、近代になって第一のタイプの”モノ人間”の中から技師や発明家や研究者が出てきたという。

この”モノ人間”が考える時の考え方は、”コトバ人間”の考え方とは違う。まず、コトバに対する根本からの不信感があるから、出来るだけコトバになる前のモノで考えようとする。オリジナルなことを考えようとすると、自然にそうなってしまうというのである。

西村氏の論は「日本文学に流れるアニミズム」特集の巻頭文にあった。アニミズム・・・晩年(といっても39歳の若さでこの世を去ったのだが)の作家・古沢元が追い求めた究極の世界だったので、私も影響を受けている。

1998年に「沢内農民の興亡 古沢元とその文学(朝日書林)」を私は発刊したが、その中でアニミズムについて次のように書いた。

<興味があるのは、亀井勝一郎がよりどころとした日本の古典が「日本書紀」だったのに対して、古沢元は「古事記」をよりどころにしたことである。

亀井勝一郎は「日本書紀」と「古事記」の比較で、「古事記」は神話の世界だが、「日本書紀」は人間の自覚史だとの違いを強調した。亀井勝一郎は戦時下にあって、人間悲劇の歴史である「日本書紀」を小説を読むように愛読した。

古沢元は昭和17年(1942)の「正統」創刊号で「文学理念の探求」という小文で「単なる神話、伝説として扱うならば、古事記はそれだけのものにしか見えない」と断じて「奈良、平安、鎌倉、足利、徳川時代には、支那的な日本書紀だけが重んじられ、純日本的な古事記が無視されてきた」と嘆いた。

外来文化を日本的に包摂した「日本書紀」とは異なり、国学者の本居宣長、平田篤胤の反逆を経た古事記を再評価することを唱えた。そして古事記が持つアニミズムの世界に注目して、これが泉鏡花の研究につながった。>

古事記については1996年に芥川賞受賞作家の田辺聖子が「古事記はすべての日本文学の出(い)できはじめの祖(おや)」「私たちが誇る民族遺産」と激賞している。

文学は、その国の人々が持つ世界観や自然観などを色濃く映し出すものだが、カナダ人やアメリカ人の研究家の間で「日本文学に流れるアニミズム」に関心が集まっている。そして泉鏡花、川端康成、宮沢賢治の小説が翻訳され読まれている。

アニミズムの語源は霊魂を意味するラテン語の「アニマ」なのだが、アンドレ・マルローの「二十一世紀は霊性の時代となるであろう。さもなくば、二十一世紀は存在しないであろう」の発言と重ね合わせると欧米人の中から「日本文学に流れるアニミズム」に関心が集まるのが分かる気がする。

文明民族でありながら、日本人には霊魂とか霊性意識が他国よりも色濃く残った。小林秀雄は「大陸から伝来した漢字に対抗する手段として、古語の持つ力を強調しようとする意図が働き、古語に秘められた言霊が残った」と解説している。

欧米文明はキリスト教の一神教の下で近代化を進めて成功した。欧米文明はキリスト教の理解なしには分からない。だが、そこに同根の砂漠の宗教というべきイスラム教が台頭して、二つの一神教の衝突で戸惑いをみせている。さりとて釈迦の仏教でも救いにはならない。

宗教では越えられない対立の壁の中で、ある意味では無宗教ともみえる日本人のアニミズム(それを意識している日本人は少ないのだが)に欧米人が関心を持つ構造が生まれているのではないか。

欧米文化の物質主義の洗礼を浴びながら、日本古来の伝統文化ともいえるアニミズムとの折り合いをつけるのが、アンドレ・マルローのいう「霊性の時代」なのだろうが、私にはまだその道筋が見えない難しい課題となっている。

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