■真田昌幸が死守した因縁の沼田城
NHK大河ドラマ「真田丸」は、武田氏滅亡後、地方豪族・真田家が生き残りをかけ、手を結ぶ相手を次々に代える展開が話題を呼んでいる。その中で、「真田の意地」「武士としての誇り」の象徴として登場する沼田城(群馬県沼田市)。
真田はなぜ沼田城の支配にこだわったのか、そして沼田城とはどんな城だったのか。「 2016年大河ドラマの舞台はここ! 真田の城(上)『上田城』 」「 同(下)『真田丸』 」「 武田氏を翻弄した3つの城(新府城、 岩櫃 いわびつ 城、岩殿城) 」に続き、城郭ライターの萩原さちこさんに解説してもらおう。
JR上越線沼田駅から約15分。急な坂道を登りきると、沼田市民憩いの沼田公園が見えてきます。ここが、真田氏ゆかりの沼田城があった場所です。
上野(こうずけ 群馬県)北部に位置する沼田は、上野と越後(新潟県)の国境にあたる大勢力の狭間はざまにあり、また関東と越後・信濃を結ぶ、戦略上極めて重要な場所に位置します。そのため戦国時代にはこの地をめぐり、争奪戦が幾度となく繰り返されました。
真田昌幸にとっても、沼田城は武田勝頼の家臣時代から深い関わりのある城です。現在、大河ドラマで描かれているように、武田氏滅亡後も沼田城の支配権は真田一族にとって絶対的なものであり続けました。
なぜ、それほどまで真田一族は沼田城を重要視したのでしょうか。本能寺の変後の昌幸の動きを追いながら、理由を探ってみましょう。
1582年(天正10年)に本能寺の変で織田信長が没すると、旧武田領は大混乱に陥ります。同年3月に武田氏が滅亡し(参考:続・大河ドラマ「真田丸」の舞台~武田氏を翻弄した3つの城)、
昌幸が新たな主君を信長と決めてからわずか3か月後のことでした。織田政権による旧武田領の統治は終わり、織田家臣は退去または敗死。信長に上野一国と信濃の小県ちいさがた郡・佐久郡を与えられていた滝川一益も、命からがら伊勢に逃げ帰りました。
織田家臣が去り支配者のいない空白地帯となった甲斐・信濃・上野では、北条・上杉・徳川の3氏による争奪戦が勃発。「天正壬午てんしょうじんごの乱」と呼ばれる三つ巴どもえの戦いが繰り広げられました。
昌幸は、北条・上杉・徳川の3氏に囲まれ、武田氏滅亡時に続きまたしても存亡の危機に直面します。
後ろ盾がなければ自立できない立場ですから、誰につくかが運命の分かれ道。しかし昌幸が選んだのは、服従ではなく信濃一国の独立支配でした。ゆくゆくは信濃・上野の国衆をひとつにまとめることを狙い、立ち上がったのです。その才を武器に、ときに彼らを手玉にとりながら3氏間を泳ぎ渡っていきます。
■上杉、北条、そして徳川……寝返りを繰り返す昌幸
本能寺の変の直後には上杉景勝と手を結んだものの、まもなくして北条氏直に転じた昌幸。北条軍は川中島へ向かい上杉軍と対峙たいじしますが、氏直は決戦を諦め徳川家康が侵攻してきた甲斐へと向かいました。
このとき、上杉牽制けんせいの目的で昌幸を真田郷に留め置いたのが、結果的に北条氏にとって信濃侵攻の敗因となりました。
昌幸は、劣勢にあえぐ徳川家臣・依田信蕃のはたらきかけに応じ、今度は徳川氏と交誼を結んだのです。昌幸は碓氷峠を封鎖して北条軍の補給路を断つことに成功し、やがて北条軍は孤立しました。
ところが、なんと徳川氏と北条氏が同盟を結び、天正壬午の乱が終息します。北条氏に手切れ宣言をしたばかりの昌幸にとっては、青天の霹靂へきれきだったでしょう。
この頃、織田政権下では羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深刻化しており、家康は援軍を得られなくなり戦いの続行は厳しくなったのです。一方の北条氏も甲斐では敗北が続いており、退却路を封鎖される懸念もありました。
徳川に帰属したことで、昌幸は沼田城、岩櫃城、砥石といし城を手に入れ、本領の真田郷と合わせて沼田領を接収していました。
しかしこの沼田領が、昌幸と家康の間に亀裂を生み、決裂させる原因になります。徳川氏と北条氏が結んだ和睦条件のひとつが、上野の旧武田領を北条領とすることだったのです。つまり、昌幸が確保した沼田領を北条氏に返還することを意味しました。
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変から10日余り後、秀吉が「山崎の戦い」(現・京都府大山崎町近辺)で光秀を倒す。その後、「織田家の後継者」の地位を巡り、秀吉と織田家の古くからの重臣である勝家が対立、翌1583年(天正11年)の「賤ヶ岳しずがたけの戦い」(現・滋賀県長浜市)で勝家が敗れ、妻のお市の方(信長の妹)と共に自刃した。
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