20568 政三叔父のアコーデイオンを聴くことができない   古沢襄

72歳で亡くなった母・真喜は三人姉弟。長男は金一郎、次男は政三。いずれも故人となった。三人の母親は静司(しずし)、上田小町とうたわれた佳人だった。

静司は明治二〇年(1887)生まれ。上田北小学校を卒業すると、明治三十四年(1901)創立の上田女学校に進学している。この上田女学校が長野県立上田高等女学校になったのは、明治四十四年(1911)。静司は第三回の卒業生である。

家では富裕な商家の”一人娘で、何一つ不自由がない世間知らずの”お嬢様。明治四十三年(1910)に信州更級郡上山田村の豪農から、東京で中学・高校を学んだという次男を養子に迎えて、母・真喜が生まれた。

だが養子は大酒飲み、酒乱の気もあったので、離縁となって新しい養子を迎えている。私の大酒飲みは、みたこともない母方の実の祖父の遺伝なのかもしれない。

上田小町の静司は「美人 薄命」の通り、昭和二年(1927)に41歳の若さで亡くなった。心臓の近くにできた動脈瘤の悪化が病因。

<img src="http://img-cdn.jg.jugem.jp/233/1472844/20130630_730704.jpg" alt="祖母・木村静司" width="215" height="279" class="pict" />

上山田村の豪農の屋敷を訪ねたことがある。千曲川を一望のもとにおさめる丘の中腹に白壁の城壁のような屋敷が建っていた。庭園が広くて趣がある。

暮れには、この屋敷でとったリンゴをダンボールで送っていただいた。

祖母・静司のことは、これまでも何度か書いた。時折、祖母の写真をみながら私が生まれる直前に亡くなった祖母を想い出している。

この祖母から生まれた三人姉弟なのだが、末の弟の政三のことを書いておこう。母は末の弟のことをとくに目をかけていた。上田中学で柔道部の主将だった政三は、日本大学の芸術学部に進学して、東京牛込のわが家から通学している。

父・古沢元は「柔道家の政三が、何で芸術学部なんだ」と気に入らない。母は「弟は音楽家なのよ」とあがなう。

私は物干し台でアコーデイオンを奏でる叔父の演奏を何度か聴かされている。

しかし政三叔父は、この頃から肺結核を患っていた。母が政三叔父のことを思う気持ちは弟の健康を思う気持ちでもあった。

病状が悪化して郷里の上田に帰った政三叔父は、離れの家で静養の日々を送ることになった。

母はある日、「叔父さんはいけないらしいから上田にいくよ」と私を連れて信越線で上田に行った。

七軒町の別宅の奥の間で政三叔父が最期の時を迎えていた。「まあーちゃん!しっかりしなさい」と母が手を握ると「ねえちゃん!だんだん目がみえなくなる」。

母はただ泣くだけであった。

政三叔父が亡くなって、太郎山の麓近くの火葬場で荼毘にふせられた。大きな身体の政三叔父の骨揚げが終わるまで時間がかかったが、母が気抜けしたように立ち尽くす姿がいまでも印象に残っている。

人の死は悲しい。あのアコーデイオンの演奏も聴くこともう出来ない。

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