宮崎正広さんの「アメリカの政治思想の変遷」は(その3)で完結したが、米国現代史について門外漢だった私には大いに勉強になった。
大学時代にアルバイトで平凡社歴史事典編集部で原稿取りをやったことがある。西洋史担当の部署に回され、そこで東大西洋史学科の中屋健一講師のところに足繁く通った。
この人が東大の先生かと思うくらい型破りの人だった。敗戦後間もない昭和20年代のことである。何とこの人の前身は同盟通信社のアメリカ記者。同盟は共同通信社の前身だから先輩記者ということが後に分かった。
■中屋健一(なかや けんいち、1910年12月9日 – 1987年3月28日)は、日本のアメリカ史研究家。
福岡市生まれ。本名は健弌。1933年、東京帝国大学西洋史学科卒。大学院では高木八尺の研究室にいたが、助手時代の松本重治とは入れ替わりだった。
大学院時代に趣味である登山を始め松方三郎の指導を受けた。同盟通信社の岩永裕吉は高木とは同じ新渡戸稲造門下で、松本と松方の兄貴分であった。
1936年2月に同盟入社。社会部、ついで外信部にうつって日中戦争で華北戦線に従軍した。当時の前線記者は携帯用無線機の技師、それと連絡員の三人で行動し定時に支局と連絡、記事をモールスで送ったり支局からの指令を受け取っていた。
報道関係者の無線使用は同盟にのみ許されていた。1938年、中南支総局に赴任。7月に香港支局に移った。
当時大陸では松本重治、松方三郎が汪兆銘工作を行っており、12月29日の汪兆銘声明の電報を香港より打電した。
1939年、マニラの初代支局長となった。帰国後、海外部などを経て1943年4月に応召。海軍報道部嘱託となる。
共同通信社社会部次長などを経て、1948年東京大学講師となり、62年同教養学部教授、71年定年退官。72年、成蹊大学文学部教授。1979年定年退職。
1975年から1979年まで成蹊高等学校校長をつとめた。マスコミでも時事解説などをおこなった。大学院時代に日本山岳会に入会し同会理事、また日本ペンクラブ理事を務めた。
人の縁(えにし)などは、どこで繋がっているのか、後になって知ってただ驚くしかない。もっとも中屋さんから教えられることは、あまりなかった。
それに比べれば宮崎正広さんの「アメリカの政治思想の変遷 民主主義システムがなぜ独裁を産むのか?」は、重厚にして示唆に富む力作である。
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