久しぶりに風呂にゆっくりつかってリラックスした。夜中の三時に目が覚めて、まず思ったのは松岡洋右外交のことを調べてみたいということ。
■松岡洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 – 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。
アメリカへの留学経験があり、満州国では満鉄総裁として弐キ参スケの一人に数えられた。
日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。
敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死した。外交官同士のジョセフ・グルーと親交があった
1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。
この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧力の確約を迫られるが、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後貴国の希望を討議する」と巧みにかわしている。
往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。
シベリア鉄道で帰京する際には、きわめて異例なことに首相ヨシフ・スターリン自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面があった。
この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。
日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とMI6から仕入れた情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。これは後年、極東国際軍事裁判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。
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