福岡支社長室に宮崎から電話がかかってきた。宮崎日日新聞社の社長の声。「文学支社長、そろそろ遊びに来んか」
宮永真弓さん・・祖父は宮永真琴。幕末の宮崎で活躍した勤王の志士である。剣柄(けんのつか)神社の神職の子だったが、八歳で漢詩を詠み、詩文・和歌・俳句にも非凡な才能をみせた。やがて皇学を学び、勤王の大義を唱えて決起の日を待った。しかし幕命を受けた人吉藩の相良氏によって捕らえられて幽閉されている。
維新後、真琴は剣柄神社の神職を継ぎ、稲荷信仰の本拠としての名を高め、伝統行事の継承と充実に努めた。一方では高岡郷第一郷校の漢籍教授を勤め、幾多の俊才を育てた。晩年を医業にささげたが、死後5年を経た1913年(大正2)年5月、時の県知事有吉忠一は、その業績をたたえて“追美の章”を贈った。
短夜や空行く月も急ぐらし 真琴
祖父・真琴の業績は知らなかったが、福岡支社長になって管内の地方紙の挨拶回りで宮崎日日新聞社の社長だった宮永真弓氏に初めて会った。一夜の歓談ですっかり真弓氏の魅力に取り憑かれた。
この人、自分の住所を「花散る里」と勝手につけて、それで郵便物が届くのだから尋常ではない。
■「二千年の花」つゆ草(2006.12.03 Sunday name : kajikablog)古沢襄
宮永真弓という新聞人のことが懐かしく想い出される。
祖父・真琴の業績は知らなかったが、福岡支社長になって管内の地方紙の挨拶回りで宮崎日日新聞社の社長だった宮永真弓氏に初めて会った。一夜の歓談ですっかり真弓氏の魅力に取り憑かれた。
地方紙の社長というよりも「二千年の花」「つゆ草秘抄」「海から聞こえる笛」「幻現の時計」「散花散文」などを著した文人として有名であった。
和泉式部という王朝文学とくに”つゆ草”にまつわる話を地酒を酌み交わしながら聞かせてくれた。つゆ草への思慕故に自分の住所を「宮崎市花散る里」と勝手につけたが、それで郵便物が届く怪物。
白内障を患い、手術で視力を取り戻した時に、初めて目にした花が、慶応病院の庭に咲くつゆ草だったという。この花を追い求め、古墳の中で二千年の眠りから蘇ったつゆ草を「二千年の花」と命名した。洒落心がある。それから真弓氏は、つゆ草のエッセイや和歌を書き始めた。
紫式部は王朝才女だと真弓氏はいう。「つゆ草のような女」だと惚れた。
エッセイ集「二千年の花」を出した時には、間もなく真弓氏は七十歳になろうとしていた。歌人としては宮中歌会始の傍聴者となるなど著名だったが、エッセイストとしては遅咲き。それが作家・水上勉の目にとまり、わざわざ花散る里を訪れて一夜の歓談となった。
「つゆ草はいかがですか」と水上氏。
「まだ芽は出ていませんが、いやもうはびこるにまかせて・・・。わが庵は夏は草のなかですわ」と哄笑した真弓さん。
たましひは焔となりて狂ひ咲く火葬り式部の紅蓮を見たり 真弓
紫式部の終焉の地は日向(宮崎県)だったという。八十歳の時に出した「幻現の時計」では和泉式部と与謝野晶子のつゆ草を歌った和歌が紹介されてある。
露草に染む衣のいかなれば現し心もなくなしつらむ 和泉式部
そよ理想おもひにうすき身なればか露草人ねたかりし 晶子
二年後の八十二歳で「散花散文」を出したのが五月。暮れも押し迫った十二月二十九日に入院先の県立宮崎病院で胆管ガンで亡くなった。享年八十三歳。
「キミ、新聞は軟派できまるんだよ。文弱の徒に栄光あれ、だ」が口ぐせ。
毎月のように博多の支社長室に「文学支社長!宮崎に遊びにこないか」と大きな声で電話が掛かってきた。それを心待ちしていた私は、いそいそとして宮崎空港に向かったものである。
その真弓さんが「キミ、日向灘地震帯を知っているか」と珍しく文人らしからぬこと言った。もちろん知っている筈がない。
いまになって、日向灘地震帯が鳴動すれば、日本列島は大騒動になると知っている。
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