20895 北アジア史的なものに惹かれた司馬遼太郎   古沢襄

五月になった。思い切り外歩きをして英気を養いたい。

というのは口先だけで、居間でかねてから関心があった北アジア史の史料を読み漁っている。

漢民族の興亡史にも人並みの関心はあるが、やはり北アジアの匈奴興亡史には及びもつかない。

シベリアの真珠・バイカル湖に二度訪れた。そこで古代トルコ民族の足跡を知った。帰国して北アジア史の泰斗・護雅夫氏の著作を読んだ。

東大名誉教授の護氏には「古代トルコ民族史研究」Ⅰ、Ⅱ巻があるが、この研究書は東洋史を専攻した私でも難解だった。

研究書を狭くとらえれば、戦後の突厥史研究などの研究論文の集大成なのだが、もっと広い目で読むと草原の民だった古代トルコ人がユーラシア大陸で壮大な歴史を遺した足跡でもある。

護雅夫氏は序文で次のように述べている。

①私の研究生活は、1943年9月に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業したさい、より正確にいうと、1945年9月、軍務から解放されて、大学院特別研究生に採用されたときにはじまる。

それ以来、わたしの研究対象は、モンゴル帝国からはじまって、突厥、鉄勒、高車、丁零、そして匈奴へとさかのぼり、ふたたび突厥、ウイグルへとくだっていった。

②このように、わたしの北アジア史研究は、大体、古くは匈奴から新しくはモンゴル帝国におよんでいるが、その中心は匈奴、突厥、モンゴル帝国にあった。

わたしが突厥史研究をはじめたときには、古代チュルク語について何らの知識をも持ち合わせていなかった。

③1958年から59年にかけて、トルコとドイツに留学し、イスタンブル大学のアラト教授とハンブルグ大学のフォン・ガベン教授とから、古代チュルク語の手ほどきをうけたが、帰国後も、主として漢文史料に拠りつつ「突厥第一帝国」の研究をつづけた。

■護雅夫氏に触発された北アジア史への旅

もう10年以上も前のことになるが、ロシアのブリヤート・モンゴル共和国を訪れて、日本人と変わらない風貌のブリヤート人に接して驚嘆した。そこからバイカル湖周辺のブリヤート人が古代日本人のルーツだという仮説を立てた。

それ以来「マリタ遺跡と古代ブリヤート人」「ツングースの扶余族が大和国家を創った」「日本人のルーツ・ブリヤート人」「聡明で誇り高きブリヤート娘たち」「”雑学”の大家・司馬遼太郎」「友好関係が深まるモンゴル」を杜父魚文庫ブログに書いてきている。

ブリヤート人はまさしく古代トルコ民族の末裔である。古代トルコ民族の版図の北限がバイカル湖周辺であって、そこに至る中央アジア諸国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)も古代トルコ民族の足跡が残っている。

いまのトルコ人やモンゴル人が古代トルコ民族そのものと断定するのは無理があるが、他民族との血の混交があっても、古代トルコ民族の末裔であるのは疑う余地がない。

■漢の皇帝劉邦が怖れた北アジアの匈奴(2015.07.15 Wednesday name : kajikablog)

日本ではモンゴル帝国のジンギス汗のことは、よく知られているが、漢王朝を震撼させた匈奴の冒頓単于のことは、ほとんど知られていない。

紀元前200年のことだが、北方の匈奴は丁零、高車など北アジアのトルコ系遊牧国家を服属させて、南の太原に侵入してきた。

江南の楚人・項羽は勇猛さで知られたが、垓下の戦いで漢の劉邦に敗れた、勢いに乗った劉邦は大軍を率いて匈奴を迎え討つ。折から大雪と寒波に見舞われた漢軍は難渋を極めた対匈奴戦となった。

匈奴の冒頓単于は漢軍をさらに北へ誘い込む作戦をとった。この偽装撤退に乗ってしまった劉邦は「白登山の戦い」に誘い込まれて、七日間も匈奴軍に包囲されて手痛い敗北を喫した。

■白登山の戦い

楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たした皇帝劉邦は、匈奴へ備えるために韓王信を代(現在の山西省)に派遣するが、匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を唱えた。

これを裏切りとみられた韓王信は、匈奴に投降した。韓王信の軍隊を加えた匈奴は40万の大軍で太源へ攻め込んできた。

劉邦は32万の軍勢をひきつれて平城で匈奴を迎え討った。

だが劉邦の本隊は、弱兵ばかりに見せかけた匈奴軍の偽装退却にだまされて進撃して孤立してしまい、白登山で包囲された。

この時、匈奴軍は北方の軍団は黒馬、南方の軍団は赤馬、西方の軍団は白馬、東方の軍団は白面の黒馬に乗って漢軍を包囲していたという。

7日間包囲されていた劉邦は陳平の献策に従い、冒頓単于の妻に贈り物をして包囲の一角を開けさせた。

劉邦の軍勢はそこから包囲を抜け出し、命からがら長安に逃げ帰ることが出来た。この時、漢軍兵士の10人に3人は凍傷で指を失っていた。(ウイキペデイア)

これ以降、漢は匈奴と和睦して匈奴に対して毎年貢物を贈った、『史記』に匈奴との屈辱的な講和条約の締結が記されている。

漢の宣帝の時代になると、匈奴の単于が漢に入朝し自ら臣と名乗る。皇帝は大いに喜び、後宮の美女・王昭君を単于に嫁がせている。王昭君は支那四大美女の一人。

さしもの猛威を振るった匈奴だったが、紀元48年に北匈奴と南匈奴に分裂、内紛によって急速に力を失った。南匈奴がまず漢王朝に降り、北匈奴も紀元91年に漢軍に大敗した。文字を持たぬ匈奴だったので、北アジアを支配した実相については詳細が分からない点が多い。

■匈奴の狼始祖伝説

匈奴(きょうど 紀元前209~)の君主・単宇(ぜんう)に二人の娘がいた。容姿が極めて美しいので、天に嫁がせるため高台に四年置いたが、ある日老いた狼がやってきて、穴を掘って住みついた。

姉は畜生を嫌って高台を去ったが、妹は狼の妻となり、子を産んで高車・丁零という国家を成した・・・狼始祖伝説。

匈奴がモンゴル種なのか、トルコ種なのか定説がない。だが高車・丁零の建国神話でみるかぎり匈奴も古代トルコ民族が多数を占める連合体だった可能性が強い。

高車のことを中国の史書は「高輪の車を使用する丁零族」と書いている、

この言葉から背の高い丁零族が想像できる。漢人が驚く背の高い丁零こそは、最古の古代トルコ族といわれている。

言語学者は「トルコ→テュルク→テイレイ」と読み解いている。高車丁零の後身に「鉄勒(てつろく)」という強大な国家が現れ、やがて突厥(とっけつ)国家が誕生する。

「→テツロク→トッケツ」と読み解くと、ジンギス汗が現れる(十二世紀)前の北アジアは、狼始祖神話を持つ古代トルコ民族が強大な勢威をふるっていたことが想像できる。

突厥(とっけつ)は六世紀から頭角を現し、東は興安嶺から西はウズベキスタンのソグド地方に至る空前の地域を制圧、古代トルコ大帝国を建設した。

しかも北アジアの遊牧民族史上はじめて文字を用いて、オルホン碑文を残している。しかし、支配する領土が余りにも広大だったから、この遊牧帝国はアルタイ山脈を境として、東西の両帝国に分裂している。

突厥にも狼の始祖神話がある。鉄勒の末期に隣国と戦って、ただ一人生き残った十歳の男の子が、牝狼が住む洞窟に匿われ、それと交わった。やがて十人の男児が生まれ、その子孫が繁栄して突厥帝国を作ったというものである。この下りは「周書」や「隋書」、「北書」に出ている。

東西に分裂した突厥(582)は、西突厥が739年に滅び、東突厥も744年に滅亡。いずれも唐の太宗の時代である。

十二世紀になってジンギス汗が現れるまでの北アジアは、群雄割拠の時代だったが、東の「金」と西の「西夏」が栄えている。女真族の国である金の始祖神話には、日本の羽衣伝説に似たものがある。

その昔、長白山の湖に三人の天女が舞い降り、水浴びをして遊んだ。その時、カササギが赤い実をくわえてきたのを、一番下の妹の天女だけが食べてしまった。妹は身ごもり、そのために再び天にかえることもできなくなった。

そして天女は赤子を生んだが、その子は、大変聡明で利発な子に成長し、やがて川を下っていって、人々を治めるようになった。それが、女真族の始祖プクリ・ヨンジュン。

西夏はチベット系タングート族が作った国だから、狼始祖神話も犬始祖神話も持っていない。草原を制圧した「古代トルコ民族=狼」の時代が終わり、十二世紀のジンギス汗が登場が迫っている。「狼=トルコ民族」から「犬=モンゴル民族」へ舞台役者が交代しようとしている。(歴史と神話  杜父魚ブログ)

 
■古代トルコ民族に伝わる「狼祖神話」(2015.07.14 Tuesday name : kajikablog)

支那上古史を惹かれて黄河流域の漢民族について考えているうちに、その黄河流域を取り囲む周辺にオリエント文明の影響を受けた古代トルコ民族の末裔が作った国家群があったことを知った。

この国家群は文字を持たないので、遺跡や言い伝えなどから概略を知るしかないが、文字を持つ漢民族の資料にはその存在が漢字表記で残されている。

これが匈奴の祖先である「丁霊、堅昆、高車」といった遊牧国家なのだが、モンゴル帝国にも足跡を残している。

突厥、鉄勒、高車、丁零、そして匈奴と日本人にはなじみの薄い北アジアの国家群だが、司馬遼太郎は代表作「坂の上の雲」や「菜の花の沖」を書きながら、この”北アジア史的なもの”を考え続けていたという。

私も二度にわたったシベリアのバイカル湖旅行で、日本人と寸分も変わらぬブリヤート・モンゴル人に触れて、司馬遼太郎が北アジア史的なものに惹かれた心が分かる気がした。

少し飛躍するかもしれないが、およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が東進し、地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきたと想定されている。

その数は七〇〇〇人前後という推定値もある。縄文遺跡から発掘された人骨のDNA鑑定をすると、ブリヤートとほとんどが一致するという。

このブリヤートは日本列島を南進して九州まで及んでいる。だから北方系の遺伝子はブリヤートのものが、日本人に色濃く反映されたとみていい。

日本列島にはやがて中国の江南からブリヤートよりも高度の文化を持った渡来民が渡ってきている。

稲作技術と鉄器を使用する民族である。これが弥生人の原形なのであろう。DNA鑑定でブリヤートの次に多いのが江南人のものとなっている。

熱しやすく祭り好きの江南人の性格は九州人と似ているそうだ。

ところが不思議と朝鮮半島に人たちのDNAは少ない。朝鮮半島で最初の統一国家となった古代新羅王朝と古代日本の関係は意外と薄い。

神話時代の古代出雲国が新羅と交流があったというのは明らかだが、DNA上では少ないのは不思議である。

大阪外語蒙古学科を出た司馬遼太郎は、<シベリアには森林(タイガ)や河川で原始的な狩猟採取の生活をしているひとびとだけでなく、大小の遊牧集団も住んでいた。その最大のものが、バイカル湖畔に遊牧するブリヤート・モンゴル人だった。低地モンゴル人といってもいい。だからモンゴル高原のモンゴル人とは、別に考える必要がある。>と述べた。

さらに司馬遼太郎は<バイカル湖を中心に展開する高地には、古代中国の視野に、丁霊、堅昆、高車といった諸遊牧国家が存在していた。

やがてかれらは匈奴に屈服し、併合された。(中略)バイカル湖西方のイエニセイ川右岸草原にミヌシンスク遺跡が発見され、これによってシベリアに紀元前三〇〇〇年というふるい時代に西方のオリエント文明の影響をうけた青銅器文化が存在していたことがわかった。>と指摘している。

司馬遼太郎の「ロシアについて」は1986年の作品だが、その後2001年に佐賀医科大学がDNA鑑定によって「日本人はバイカル湖畔のブリヤート人との共通点が非常に多く、朝鮮人、南中国人、台湾人などと共通する特徴を持ったのが各1体だったのに対して、ブリヤート人とは17体近くが共通していた」と発表した。

北方系日本人のルーツがシベリアのバイカル湖にあるということが科学的分析で立証されたことになる。

大胆な仮説を立てれば、バイカル湖周辺は約二万年前に人もマンモスも住めない極寒の時代を迎えて、ブリヤート人暖かい土地を求めて東進を始めた。

この人たちは一万三千年前には、シベリアのアムール川周辺に到達し、さらに地続きのサハリン、北海道を経て、まず本州の津軽地方に姿を現した。

この一万三千年前というのは地球が氷河期から温暖期に入る境目の時期になる。

日本列島に渡ったブリヤート人は海を渡ってシベリアの大地に戻るよりも日本列島を南下し、縄文人の祖先となったと考えるのが妥当であろう。

さらに想定を重ねると氷河期のブリヤート人は東進する道のほかに、南下する道もあったのでないか。そこには極寒であったかもしれないが、夏には草地が甦るモンゴル平原が広がっている。

それが匈奴の祖先である丁霊、堅昆、高車といった遊牧国家となり、モンゴル帝国を築いたのではないか。史料が乏しい古代史には推理小説を読み解くような楽しさがある。

だが北アジア史のほとんどが未解明だといえよう。いずれも文字を持たない草原の遊牧国家であった。高車、丁零の呼び名は、漢字文化を持った「魏書」や「北史」にわずかに出てくるに過ぎない。

■「獣祖神話」を書いたことがある。遊牧民の古代トルコ民族は”言い伝え”で狼祖神話を遺した。

ジャーナリストになってからは、北アジアの「獣祖神話」に興味を駆られて資料を集めては閑さえあれば読んだものである。

代表的なのは古代トルコ民族の狼祖神話。五世紀のはじめからモンゴル高原の北部に住み、アルタイ山脈の西方に「高車・丁零(こうしゃ・ていれい)」という古代トルコ民族の遊牧国家があったが、その始祖伝説はオオカミに関するものがある。

作家・井上靖は「蒼き狼」の小説を書いたが、ジンギス汗の征服欲の根源は、蒼き狼の血だとしている。モンゴル神話では蒼き狼と白い牝鹿とが天の命でやってきて、生まれた最初の人間が「バタチカン」だと伝えている。蒼き狼の名はポルテ・チノ、白い牝鹿の名はコアイ・マラル。

ポルテ・チノの狼血が、ジンギス汗に流れた説は、狼始祖史料「モンゴルの秘められた史(ふみ)」にある。

実は、もう一つの犬始祖伝説がある。ジンギス汗は、むしろ蒼き狼の血統ではなくて、黄色い犬の血統だという。チベットでは「蒙古人の祖先は犬」だという。一方モンゴルでは「チベット人の祖先は猿」。

ところが古代の漢民族や朝鮮民族には「獣祖神話」がない。

あるのは「感精(かんせい)神話」。感精とは超自然力の天降る霊物などを意味している。日本の天孫降臨(てんそんこうりん)神話は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという感精神話。

「感精神話」の代表的なものとして、朝鮮半島で初めて統一王朝を作った新羅の建国神話がある。

<新羅には古くから六村があった。それぞれの村では聖地や聖山へ村長の始祖が天から降臨してきた。前漢の地節元年(紀元前69)三月に六村の長が君主を迎えて国を建てようとした。
 

その時、異様な気配がして、いなずまのようなものが天から地に垂れていた。一匹の白馬がおじぎをしている。一個の紫の卵があった。卵から童子が現れ、湯浴みすると全身が光り輝いた。六村の人たちは「天子はすでに天から降ってきた」と喜んだ。>

また高麗の僧一然が編纂した「三国遺事」では、民間信仰の檀君神話を取り上げている。ここでは熊が人間になって天子の子を生むという「獣祖神話」と「感精神話」の混合になっている。

<天神桓因の子・桓雄は人間世界を治めるため、太伯山の頂上に降りてきた。(=感精神話)その時同じ穴に住んでいた熊と虎が、桓雄に祈願して人間になるための修行をした。虎は途中で修行を放棄したが、熊は修行をおえて人間の女になった。やがて桓雄と結婚して、檀君王倹を生んだ。(=獣祖神話)>

檀君神話は平壌地方の民間信仰の一つと言われるが、熊が人間となって、天神の子を生む伝承は高句麗などツングース系の始祖神話に通じるものがある。熊にたいする信仰は北方系民族に広く分布し、日本でもアイヌの信仰の的となった。

万里の長城を越えて”明”を滅ぼし清国を作った女真族は、ツングース系の民族で勇猛でもって知られ、西のモンゴルと激しく戦った。その女真族が作った金という国の始祖神話に日本の羽衣伝説に似たものがある。

<その昔、長白山の湖に三人の天女が舞い降り、水浴びをして遊んだ。その時、カササギが赤い実をくわえてきたのを、一番下の妹の天女だけが食べてしまった。妹は身ごもり、そのために再び天にかえることもできなくなった。

そして天女は赤子を生んだが、その子は、大変聡明で利発な子に成長し、やがて川を下っていって、人々を治めるようになった。それが、女真族の始祖プクリ・ヨンジュン。>

国によって神話の内容は様々だが、その民族が国家形成に至る物語として率直に聴く心の豊かさがほしい。(歴史と神話 杜父魚ブログ )

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