20896 漢字の起源を探る 黄河流域の漢民族文化(再掲)   古沢襄

古代文明は文字の使用によって歴史が伝えられ、王朝の栄枯盛衰を知ることができる。支那上古史で考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝を「殷(いん)」といったが、漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の殷(商)の時代だといわれる。

殷は古伝説の夏を滅ぼして王朝を立てたとされている。殷の祖・契は舜王朝で禹の黄河治水を助けた功績で陝西省の商王に封じられた。

商の名は『通志』などで殷王朝の祖・契が商に封じられたとあるのに由来するとされ、『尚書』でも「商」が使われているので、商王朝ともいう。いずれも文字によって伝えられている。

陝西省の商王・契は、その強大な軍事力で知られた。度重なる戦争に勝利を収めるために、商王たちは兵種、戦法、軍備などを発展させていったという。とくに「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術を編み出した点が注目された。

契から数えて13代目の天乙(湯)が賢相・伊尹の助けを借りて鳴条の戦いで夏王桀を倒し諸侯に推挙されて王となったのはその軍事力によるところが大きい。

殷(商)王朝は二十八世・六百余年続いた。しかし暗愚な王が続いて王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妃の妲己を溺愛し、暴政を行ったので、周の武王によって牧野の戦いで誅殺され、殷王朝はあっけなく滅びた。

軍事力で強大な殷(商)王朝が滅びたのは、人徳に欠けた王の下では国家の安寧は覇道ではなく、王道を歩むことにあることを如実に示している。

さて支那上古史を詳述するのが、本稿の目的ではない。支那文化の発展に寄与した「漢字の起源」を探るのが目的である。

今から、約6000年前のものである半坡遺跡で、50種あまりの符号が発見された。それには一定の規律があり、簡単な文字の特徴を持っている。「これは漢字の萌芽である可能性が高い」と専門家たちは見ている。

だが漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の商の時代とされている。商の初期には、中国文明はすでに相当高いレベルに達しており、その特徴の一つは、甲骨文字の誕生といわれた。

甲骨文字は、亀の甲や獣の骨に刻まれた古い文字である。商の時代には、国王はどのようなことをやる前にも、かならず占いをしたが、甲骨文字はその占いをするときの道具であるとされた。

この甲骨は政府当局の文献として保存された。考古学の専門家は、あわせて甲骨16万枚あまりを発見している。

私は黄河流域で興った漢民族の興亡史よりも北辺にあって漢民族を脅かした古代トルコ民族の末裔の壮大な興亡史の方に興味があるが、文字を持たない遊牧国家の興亡史は漢民族の文献によって知るしかない。

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