■西側は冷戦に勝って一気に緊張を弛緩させてしまった 『後期全体主義』以後の社会は、西側が期待したものではない
<西尾幹二『西尾幹二全集(13)日本の孤独』(国書出版会)>
主として雑誌と新聞に書かれた時局評論がこの全集第十三巻には集められている。その時局ごとに適切な問題提議と鋭角的な情勢分析が並んでいる。
扱われる時期はソ連崩壊からイラク戦争、この間にすすんだ日米構造協議、クエート戦争への膨大な出費と敗戦国扱いなどのテーマが重なる。
ソ連崩壊で自由主義が勝ったなどと短絡的反応をしめしたのはネオコンだったが、爾後の世界はかれらの描いた通りには進まず、とりわけ「アラブの春」は無惨に挫折し、シリアへの不介入は米国の威信をぼろぼろにして、プーチンの影響力を際立たせた。
そして東西冷戦に勝ったはずの西側諸国で、左翼はうちひしがれて消えるかに思われたのに、環境、人権、平和などを巧みに逆手にとって「男女同一賃金」はまだしも、怪しげな「反原発」とか、「先住民族差別反対」やらなにやら面妖な「市民」運動を展開して生き残った。
テレビのコメンティターを眺めやっても保守系は誰もいない。偽善と欺瞞でポーズを作りながら右顧左眄を繰り返すニセ知識人が日本の大手マスコミではいまも通用しているのは不思議というより、本当に西側の自由陣営が全体主義に勝利したのかという疑問なのである。
西尾氏はすでに60年代後半、とくにチェコ事件以後の東側を「後期全体主義」と定義されたことがある。
「「処刑と粛清の相次ぐスターリン時代とは異なり、東側は国内で革命精神を失い、守りの態勢に入る。市民相互の密告ネットワークが完成した息苦しい社会で、もう政府も市民も内心で革命を信じていない」。
ゆえに西側でも「共産主義に思想的に冒される危機の時代は去った」(198p――199p)。
しかし、日本では「ドイツや朝鮮と異なって、国内に三八線が引かれていた」のだ。
「国民の心に目に見えないベルリンの壁があった」。そして西側の緊張感は一気に弛緩し、自民党は総主流派の政権たらい回しが続き、「未来への本当の目的が見えなくなってきたのである」。
西尾氏は、第二部の「湾岸戦争」のなかで、こうも書かれる。
「冷戦の終わりとともに、経済力がこれからは世界を動かす時代だというようなことを言う人が、にわかに増えていた」
ところが、「経済力が世界の秩序を決めるという非軍事国の『覇権国家』幻想は、もともと虚しいものであったのに、少し前にはなんとなくそんな幻想が日本の国内に瀰漫していた。湾岸戦争は幻想を一気に打ち壊したが、それだけでは終わらなかった。いかに強大な力であろうとも、経済力は一国の安全保障の代替にはなり得ないことをも証明したのだった」(117p)
そのことを象徴する出来事があった。
「ソ連政府筋と金銭上の取引の密約がすでに成立しるかのごとき取り沙汰が、あちこちの新聞に」報道されはじめ、それを裏書きするかのような小沢一郎の訪ソがあった。
「結果はすでに国民の知悉する通りである。ゴルバチョフへの期待は失望に終わった」
「カネを振り翳(かざ)した戦略が相手をついに動かすことが出来なかった」ではないか。つまり「平和主義的心情のために巨額の金を出し軍事負担を逃げる」という日本の政財官界の考え方は「錯誤」だ、と西尾氏は断定する。
▼狷介孤高に見える西尾さんの素顔
さて、この全集に挟み込まれた「月報」に評者(宮?正弘)も寄稿を求められたので、次のように書いた。ご参考のため、ここに再録させていただく。
(引用開始)昨師走にチェコを旅行した折、この全集第十二巻の『全体主義の呪い』を携行した。冷戦終了直後にプラハに赴いた西尾氏が、ハベル大統領の側近や知識人らと「黒い馬」という紫煙もうもうのバアに集まって活発な議論を展開したと、書かれた冒頭箇所を記憶していたからだ。カレル橋から旧市街にかけて、当該酒場を探したが、結局見つけることは叶わなかったが。
それはともかくとして、あの冷戦の酷薄な時代を生き抜いた知識人らと侃々諤々の対話をくりかえすなかで「今世界で一番大事なお話をなさっているという気がしないのです」とずけずけと、しかし相手の肺腑をえぐる発言をしていることに強い印象が残っていた。
こうした思想的なことを軸に本稿に向かったが、すでに過去の月報で氏の多くの友人等が執筆し、論議は出尽くした感がある。そこで小生はごく個人的な目から、氏の人生の取り組みについて綴ってみたい。
なにかの書籍の書評を書いたことが切っ掛けに知遇を得て、西尾氏が主宰される「路の会」のメンバーに加えて戴いた。事後、私塾のような「坦々塾」でも小生が初回の講師に呼ばれ、「新しい歴史教科書をつくる会」での八面六臂の活躍の頃には多少の手伝いもさせていただいた。
小生は学生時代に「日本学生新聞」の編集を担っていた。三島由紀夫や林房雄、村松剛の各氏等に寄稿して貰っていた。初代編集長は持丸博(「楯の会」初代学生長でもあった)だったが、『論争ジャーナル』に移籍した彼が、西尾氏を伴って三島由紀夫邸を訪れた。その晩、六本木のゴーゴー倶楽部へ連れて行かれた回想などが西尾氏の著『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所)のなかにも出てくる。
小生は楯の会二代目の学生長だった森田必勝と親しかったこともあり、三島事件後、「憂国忌」の催行を続けており、西尾氏には何回も「憂国忌」にお出ましいただき印象に残る講演をしていただいた。
昨年、第四十五回「憂国忌」でも基調講演をお願いしたのだが、打ち合わせは電話でいつもの長い話の果てに「それじゃ十五分ほど」と。しかし途中で熱が籠もると止まらない。結局四十分の熱弁となった。
一際想い出が深いのは氏の『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)の出版記念会だった。
裏方を務めたので招待状つくりから当日配る冊子やスライドの手配など、版元の文藝春秋の担当者等と頻繁に打ち合わせを重ねた。氏の自宅書庫で記念会の基調報告に使う古典や写真のチェックなど、入念な準備に努めた。記念冊子だから8ページ程度でよいのではとの小生の言は軽く一蹴され、結局40ページの大冊となった。
某年4月4日の当日は、まさかの春の雪となった。悪天候に出席の叶わないものと危ぶんだのだったが、会場は四百名超の熱気に溢れた。予測外の「無断出席」の編集者続出という事態を前に、裏方としての面目も然りながら、改めて氏の仕事の大きさ偉大さを思い知らされたことだった。
ニーチェ研究、文藝評論、そして近年は旺盛な時局評論や歴史評論でも学ばせていただく機会が増えた。カバーする範囲はあまりにも広大無辺!と目を瞠る思いだが、やはり学者気質のなせる技か。興の赴くところへ徹底的に突き進む性格、そしてそれを可能にする智力気力体力をお持ちだ。
ひとたびその文字を辿れば誰もが了解するように本質をずばっと抉り出し、切っ先鋭い批判に終始する。書物を通じて氏を知る人はさぞ気むずかしい、狷介な性格の持ち主というように氏を誤解する向きがあるかもしれない。たしかに会話は常に理詰めで、論理的矛盾には容赦なく批判追及の手を弛めず、とことん論じ尽くす。
デビューしたがっている若手や学者の真贋をたちまち見破ってしまう。
西尾氏のお陰で論壇に出た人、お蔵になりかけていた作品を世に問うことができた人も数多い。犬好きで、面倒見の良い、慈父のような側面に触れさせてもらった筆者の場合を綴って、大方の読者に「その一面あればこそ」と氏の眼差しへの理解の深化を促したい。
ある年、氏は突如、小生の出版記念会を企画提案され、ためらいがちな小生の背中をぽんと押して、とうとう拙著出版記念会開催に至った。通り一遍でない、手間暇を要したはずの祝辞に小生はただただ頭を垂れた。これを基調に小生の文庫版の解説を書いていただくことにもなった。
講演旅行にご一緒したこともあったが、氏はじつに健啖家。80才をこえて驚くばかりの旺盛な食欲、そしてお酒が強い。少なくとも、この全集の完結まではお酒を適量におさえては如何と思って見ていたが、どうやらこちらは堅固な意思を以て自主規制されているこの頃のようである(引用止め)。
<a href="http://www.kajika.net/">杜父魚文庫</a>)
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