20751 アメリカの政治思想の変遷(その3)   宮崎正広

■民主主義システムがなぜ独裁を産むのか?

  ▼エドモンド・バークとトクヴィル

1983年、レーガン政権のときにアジア各国からジャーナリストを各二名を米国政府が招待し、一ヶ月カリフォルニア州クレアモントで学生寮に泊まり込み、連日アメリカの政治、社会、歴史、民主制度を討議するプログラムが実行され、著者もその一人として米国に招かれたことがある。

中国を除き、アセアン十ヶ国に豪州、韓国、台湾から合計30名近いジャーナリスト、政治学者が集まり、連日連夜議論に明け暮れた。 このとき招待元のクレアモント研究所が用意したテキストがエドモンド・バークとトクヴィルだったのである。クレアモントはピーター・ドラッカーがすんでいた。

毎晩のようにこの二人の名前が議論にでてきたので、いささかうんざりして記憶がある。

トクヴィルはアメリカ政治を最初に科学的社会工学的に分析したフランス人として知られ、アメリカ政治、歴史、文化論を専攻する学者、学生は必ず引用したりする重要作品を残した。

ちなみに中国でも王岐山(政治局常務委員、反腐敗キャンペーンの責任者)が就任早々に、トクヴィルを読めと周りに勧めたことは有名な話である。蛇足だが王岐山がそのときに日本人学者で参考にするべきはと問われて岡田英弘と答えた。

さて、民主主義なるシステムは人類が生み出した最良の政治システムではなく次善の制度である。

最良な制度は賢人政治だが、アリストテレスもプラトンもソクラテスもいない世界では無縁のファンタジーに近い。

民主主義はワイマール共和国が内部から全体主義に崩れていったように、「民主的な手続きで民主主義を放棄することに同意できる」という脆弱性を内包している。

すなわち有権者の過半が「民主主義をやめる」ことに同意すれば、ヒトラーが登場したように個人に権力が集中したり、あるいは反対派派を排除したりすることが「民主主義」の名のもとに正当化される。まさに「民主主義の逆説」である。
 

だから少数派、過激派がトランプに対しての罵詈雑言は、ヒトラーになぞらえることなのだ。歴史の教訓を見よ。かつてのローマのカエサルは民主的手続きを経て皇帝になった。フランス革命では民主革命を呼号して反対派を粛清し、その反動があり、フランス革命とは血を地で洗う暴力の結末を迎えた。まさに当時の民主主義の裏側は「ギロチン・ゲーム」だった。

ナポレオンもやがて「独裁者」としてフランスに君臨した。フランス国民はナポレオンを英雄として祀った。

現在のアメリカ人は連邦議会の優柔不断、オバマ大統領の決断のなさに不快と不信感を抱き、「英雄的な指導者」を待望するというディレンマに陥っていた。だから自らの心理と強い指導者のイメージを振りまくトランプを一体化させ、強い指導者像を重ねるという一種の幻像、錯覚に陥る。

民主主義の発達によって人々が抑圧される弊害が往々に起こりうるのは、エドマンド・バークが指摘している。

すなわち「民主主義の最大の危険とは多数派が少数派に対して残酷な抑圧を行使できるのであり、事態がここまで悪化すれば、暴力で殺し合うフランス革命が再現される。それも民主主義のもとで。

「多数派が正しい」という価値観の浸透は「少数派は誤っている」という判断にとなり、少数派を徹底的に排除する危険性を伴う。

フランス革命では「反革命的」とみなされた少数派は「極悪人」として、次々と断頭台の露と消えた。すなわち倫理的、道徳的な価値を二の次にして主張を通そうとすれば、それは少数派抑圧の合法化につながり、ひいては非人道的な行為も合法化される。

 ▼アメリカのデモクラシーとは

日本の政治学教科書が教える民主主義は「最大多数の最大幸福」である。

これが日本の場合には聖徳太子以来の和の精神があるため、つねに少数派の意見も尊重される。過半数を抑えているのに自民党は野党の意見を尊重するように。

しかし米国では「Winner takes All」(勝者総取り)がルールであり予備選であれ大統領選挙であれ、いや社会一般から企業人事に到るまで、勝者がすべてを獲得するという制度が合法化されている。

1831年、フランスから視察目的で米国にやってきたのがトクヴィルだった。

トクヴィルは米国のあちこちを旅行し、人々の意見を聴き、生産現場を観察し、議会を視察し、それらの見聞をまとめ、『アメリカのデモクラシー』を著した。この本は古典となり必読文献であることは述べた。

トクヴィルの関心は、「アメリカでは民主主義が発達したと言われるが、フランス革命以後のような『多数派の専制』がなぜ生まれないのか」という点にあった。そこで彼が着目したが米国における「住民の自治」という見えにくいシステムだった。

アメリカにおける「平等」という概念は、封建制と身分制をパスしていたため、アメリカでは人間が「平等」であることは自明の原則だった。なにしろ連邦国家でありながら、開拓時代のアメリカは中央政府が十全に機能しておらず教会も待合いも、学校も道路も、自治によって決定し、実施された。

住民自治という習慣は、相手を人格的に否定したり、たとえ意見の違いがあっても、相手の生命や尊厳を脅かすことはいけないという自覚が生まれ、自治の決定が尊重される伝統がうまれた。

▼「多数者の専制」

トクヴィルはアメリカの普遍的価値観を評価しながら、一方的に賞賛しなかった。それはフランスのクロムウェルのようなあからさまな「多数派の専制」に陥ることはなくても、表面的には平和で繁栄した社会にみえても、舞台裏には真綿で首を絞めるような、隠微な「多数者の専制」があると見抜いたのだ。

実際にその預言はあたった。1920年代の禁酒法、現代の禁煙権の蔓延は明らかに多数派の専横であり、1950年代のマッカーしー旋風もそうだろう。

いや日本に戦争を仕掛け世論を操作し、シナ大陸の権益を狙った狂気の大統領FDRを産んだのはアメリカ人ではないか。
 

こうした「狂気」が循環的に米国の政治を席巻することがある。

卑近な例がFDR(フランクリン・ルーズベルト)である。ルーズベルトはいったい何のために日本に戦争を仕掛けたのか?

当時、FDRの最大の政治ライバルだったハミルトンが怒りを込めて告発した本は日本でも翻訳がでている。

それはハミルトン・フィッシュ、渡邊惣樹訳『ルーズベルトの開戦責任』(草思社)で、戦後、GHQが押しつけた『太平洋戦争』史観を転覆させるに十分な決定版とも言える書籍だ。真珠湾攻撃がルーズベルトのしかけた陰謀による行為だったことは、いまや歴史学界における常識となりつつある。
 

ところが米国ではまだそうした真実を述べると「修正主義者」のレッテル貼りが行われる。日本の卑怯な奇襲という位置づけ、直前の「ハルノート」をFDRは巧妙に隠したが、事実上の対日最後通牒だった史実は徹底的に無視され、米国史学界ではまだルーズベルト陰謀論は主流にはなっていない。

以下は前にも書いたことがあるが、反復すると、ルーズベルト大統領の最大のライバルで、「大統領が最も恐れた」議会共和党の有力者ハミルトン・フィッシュはオランダ系移民の名家、FDRの住居のあるNYが、彼の選挙地盤でもあり、実はふたりはそれまでの二十年間、仲が良かった。

共和党の重鎮でもあったハミルトンがFDRと袂を分かったのは、移民によって建国された米国は不干渉主義の国であり、しかも欧州で展開されていた、あの血なまぐさい宗教戦争に嫌気がさして新天地をもとめてきたピューリタンの末裔が建国した国であり、その理想からFDRの開戦準備はおおきくはずれているとして、正面から反対したのだ。

しかし、本当のことを知るのはFDRの死後である。ハミルトン・フィッシュは、この『ルーズベルトの開戦責任』をFDRならびに関係者の死後まで辛抱強くまち、さらに祖国の若者がまだ戦っているベトナム戦争の終結まで待って、ようやく1976年に刊行したのだ。そして日本語訳はさらに原著刊行から38年、じつにFDRの死から70年後、第一次世界大戦から百年後になってようやく日の目を見たのだった。

ルーズベルト大統領が議会を欺き、真珠湾奇襲の翌日に開戦を議会に求めて、これには当時の共和党指導者としてのハミルトンも賛成演説をせざるを得なかった経緯が詳述されている。米国の不干渉主義は一夜で覆った。

▼熱病のような危険なムードが米国を蝕むと

けっきょくヤルタの密約で東欧、満州、そして中国を失った米国の悲嘆、FDRはいったい何のために参戦したのか、国益を損なったという怒りをハミルトンが告発したわけだが、「なにがなんでも戦争をしたかった」のがFDRだったのだ。
 

第一はFDRがおこなったニューディール政策が完全に「失敗」していたという事実を把握しなければならない。このため社会主義者、共産主義左派がホワイトハウスに潜り込み、「訳の分からない組織が乱立した」
 

使い放題の資金をばらまく組織が社会主義者らによってオーガナイズされ、それでも経済不況は終わらなかった。猛烈にFDRは戦争を必要としていた。ウォール街の利害とも一致した。

FDRは「スターリンの友人であるとのべていた。スターリンは世界最悪の殺人者である。FDR自身は確かに共産主義者ではない。彼はキリスト教を信じていた」

ところが、周辺にはコミンテルンのスパイが周到に配置されており、FDRの展開した「政策は間違いなく社会主義的であり、我が国の集産主義化あるいは国家社会主義化への地ならしとなるものだった(中略)。この事実はFDRがフェビアン社会主義者であることを示している」

 ▼議会にも知らせずに出された最後通牒

第二はFDR自らが、殆どの権力を集中させ、議会に知らせずに「日本に対する最後通牒を発した。そして戦争への介入に反対する非干渉主義者を徹底的に迫害した。(中略)FDRは世界の半分をスターリンに献上した。そこには中国も含まれる。それはヤルタでの密約の結果であった」

なぜなら「レーニンが立てていた計画の第一段階は東ヨーロッパの共産化であった。それがヤルタ会談で(スターリンはあっけないほど簡単に目標の獲得に)成功したのである。次の狙いが中国の共産化であった。それもスターリンの支援によって成功した」

第三は世界観の誤認であろう。

なぜヤルタ会談でFDRは、そこまでスターリンに譲歩したのか?

「FDRはソビエトに極東方面への参戦を促したかった。満州を含む中国をソビエトに差し上げる。それが条件になったしまった。(中略)戦いでの成果の分配と戦後の和平維持、それがヤルタ会談の目的に筈だった。

しかし結果はスターリンの一人勝ちであった。イギリスはその帝国の殆どを失った。アメリカは朝鮮戦争とベトナム戦争の種をヤルタで貰ったようなものだった。戦後三十年に亘る冷戦の原因を造ったのはヤルタ会談だった。ヤルタへの代表団にはただの一人も共和党員が撰ばれていない。中立系の人物も、経済や財政政策の専門家もいなければ、国際法に精通した人物のいなかった」
 

つまり病んでいた(肉体的にも精神的にも)FDRの周囲を囲んだスパイらの暗躍とスターリンの工作司令に基づきアメリカの政策を間違った方向へ舵取りし、世紀の謀略の成就に成功したというわけである。

FDRは、ただの政治屋に過ぎず、世紀の陰謀を巡らし、そのためスパイを使いこなしたスターリンはまさに孫子の兵法を見事に実践し、孫子から二千数百年を経て、「出藍の誉れ」の典型的な謀略政治家となったのだ。

マッカーサーは議会証言で「日本は自衛のために戦争に踏み切らざるを得なかった」と言った。

あのGHQの最高司令官でもあったマッカーサーが議会証言でそう言ったことを日本のメディアは軽視した。議会証言の全文は産経「正論」が翻訳掲載したが、リベラルは日本のメディアは黙殺した。
 

こうみてくるとアメリカを襲う熱狂という危険なムードが国の基本方針を左右に揺らすという体質はまったく変わっておらず、ヒラリーを脅かすサンダース現象も、共和党中枢をがたがたに揺らしたトランプ現象も、過去のパターンと類似しているのである。(おわり) 

 
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