茨城県と秋田県ほど関係の深いところはない。これは中世史の研究家が等しく感じているのではないか。私などは歴史学徒というのには程遠いのだが、見よう見真似で臆面もなく、中世の歴史資料を集めて、閑さえあれば読み耽っている。
そのきっかけは、岩手県の西和賀町沢内の地で三百年の歴史を刻んだ古沢家のルーツが秋田県能代にあるらしいと掴んだことから始まった。ところが能代で古沢の痕跡を示す資料は、佐竹文書(秋田藩家蔵文書)にただ一つ。そこで行き詰まった。
突破口が開けたのは、茨城県下妻市古沢の地名であった。雲を掴むような思いで下妻市教育委員会を訪ねたのが数年前のことになる。教育委員会には地方史に詳しい人がいる。姓氏は地名に由来することが多いのだが、鬼怒川対岸にある八千代町の教育委員会で調べれば、古沢家の由来が分かるかもしれないと教えてくれた。
八千代町の教育委員会も親切であった。常陸国の太守であった佐竹公と盟友関係にあった多賀谷氏の侍大将に赤松姓の武将がいたが、故あって古沢姓になっているという。その研究家で古沢一朗さんという人がいると紹介してくれた。
元亀二年(1571)に後北条氏の大軍が下妻討伐の兵をおこして下妻城を囲んだ戦があった。城主の多賀谷政経は佐竹勢に応援を求める一方で、赤松常範に命じて城外の古沢邑で防戦させている。佐竹勢が駆けつけるまでの時間稼ぎだったが、常範は力戦して北条勢を粉砕している。
この戦は「赤松ガ左文字ノ刀フリケレバ 皆クレナイノ古沢ノ水」と世人から喝采を浴びている。この功績で古沢邑を知行地として与えられ、一族は赤松姓を改めて古沢姓になっている。しかし慶長六年(1601)に多賀谷氏は滅亡、古沢一族の多くは土着して武士を捨てている。
関ヶ原の役で多賀谷氏は佐竹氏と並んで石田三成方について、改易(取りつぶし)となり、下妻城は破却されたからである。常陸五十四万五千石の佐竹義宣は取りつぶしを免れたものの、出羽国久保田(秋田地方)二十万五千八百石に左遷、転封(国替え)の憂き目をみた。
出羽からは坂東水軍の流れを汲む秋田実季が宍戸(西茨城郡友部町)五万石で封じられ、後に三春城主となって福島に移っている。常陸国の太守から未知の出羽国に転封を強いられた佐竹義宣は、相次ぐ土豪の叛乱や南部氏との藩境紛争で悩まされる。当時の佐竹文書を読むと、義宣が何よりも徳川幕府から不当な言いがかりをつけられない様に、周到な注意を家臣団に与えている手紙が残されている。
義宣には多賀谷家に養子にだした実弟・宣隆がいた。兄に従って出羽国に行った宣隆は多賀谷姓を捨てて、佐竹姓に戻っている。檜山城一万石を与えられたが、多賀谷家から迎えた正室を離別した後に、真田幸村の娘「お田の方」を後室に迎えている。武将の姫としての気高さを備え、薙刀の指南をするほど武芸にも優れた才女だったという。
資料をやみくもにかき集めてきただけに、この手の雑学となると脱線しながら停まることを知らない。下妻・八千代の古沢一族の多くは土着しているが、多賀谷宣隆に従って檜山城に赴いた者もある。檜山城は現在の能代。しかし幕命によって檜山城も破却され、録を失った多賀谷家臣の多くは土着して四散している。時折、離別されて尼になった多賀谷重経の娘を囲んで、多賀谷氏の昔を偲ぶことがあったという。