「沢内年代記」を読み解く(二十三)  高橋繁

文化二年 己卯(ツチノトウ・・・1819年の記録) 
  ☆二朱銀貨来る ☆五人組、組み直し ☆御境奉行・御境古人新町より出る
  ☆新町稲荷堂改築 ☆盛岡城内に光堂建立 ☆牢者解放・追放者所替え
①作柄は上作であった。「下巾本」には「上々作」とある。秋上げ(秋の米価)は当分はよし(妥当な価格であった)。課税割合は安永四年(1775)の元歩より一歩増しとなった。四月閏あり。「下巾本」には「八月閏あり」とあるが「草井沢本」には「四月閏あり」と記録されている。「白木野本」には「閏」についての記録はない。

四月十四日八十八夜(立春から数えて八十八日目。種蒔きの適期とされる。)閏四月(閏では四月が二度あり、二度目の四月。陽暦の五月に当たる)二十日頃より田植えする。三月二十七日土用(土用は一年に四回あった。立夏の前18日を春の土用。立秋の前18日を夏の土用。立冬の前18日を秋の土用。

立春の前18日を冬の土用といい、その初めの日を土用の入りという)五月二十七日土用。七月十四日二百十日(立春から数えて210日目。稲の開花期で台風の襲来時期にもあたり農家では厄日として用心する)二月二十三日彼岸(春の彼岸。春分の日)。八月三日彼岸(秋の彼岸。秋分の日)。十二月二十二日立春。

御代官 松原勝治、大須賀左右。越中畑(関所)御番人 赤沢庄作、久慈多喜等。「七歩引」の文言がいきなり記録されている。「七歩引」の前後がないので、課税の割引きなのか収穫高のことなのか不明。課税とすれば「元歩に一歩増し」とあるから不自然である。平年の年貢米の他の税かもしれないが解らない。収穫高とすれば「上作」あるいは「上々作」であるから割引きは考えられない。南鐐(ナンリョウ・二朱銀貨・長方形の銀貨、二枚で銀一分。一両の8分の1。12.500円)が沢内通りに来た。『以上は「巣郷本」の記録である』

②「下巾本」の記録。内容が「巣郷本」にあるものは省略した。「入石相場(秋田、仙台領からの買い入れ米の値段)は一升(1.5kg)三十三文(約825円)であった。五人組合いの組み直しがあった(農家五軒を一組として隣保共同の実を挙げんとしたものである。徳川氏の一政策として公領並びに各藩に勧奨した制度である。

五人組には五人組帳があって領主が民政上必要と認めた事項を書いて実行させたものである。一組には必ず一人の長があり、選挙(入札)順番あるいは家格、村の任命等によって決定せられ、その組の一切の事務を司り、外部との折衝に当たらせた。

組合員はすべて共同の責任を負い、殊に犯罪・納税については上司から厳しく監督された。「用語・南部盛岡藩辞典」より ) なぜ、どのような理由から組直しがされたか。どのように替わったかは記録されていない。「南部雑書・家老席日誌」には沢内通りにも「欠落」(カケオチ・駆落ちは密かに逃げて行方をくらますこと。失踪であるが、一家族が揃っていなくなる、夜逃げである。)があったと記録されていることから、人口流失防止が第一の目的であったように考えられる。

新町の加藤市五郎は御境古人(境界の吟味、藩境の警備等についての役目・御境奉行の部下 として働く)を仰せつかり、苗字帯刀(苗字のある名前と刀を腰に差すこと)を許された。高橋八郎兵衛、小田嶋平八の二人は御境奉行となった。

新町の喜右エ門、茂七の二人は御山見回り役を仰せつかった。新町の稲荷神社が改築された。盛岡城内に御本社光堂(桜山神社か)が完成し、六月十九日より二十一日まで三日三夜、城下も地方においても祭事があった。盛岡藩内のお宮は残らず大中小の三段階に分けられて吟味させられ、報告書を書き上げた。御公儀(幕府)より金銀の貨幣を鋳造改めたので通用するように通達があった。新たに二歩金(二朱銀貨)が使い始まった。

③「白木野本」の記録。「巣郷本」「下巾本」に記された内容については省略した。「総じて五月の一ヶ月は雨の降る日が多かった。二十一日より二十七日まで晴天。五月末より彗星が出た。それより毎日のように半時(今の1時間)ばかりずつ雷雨があった。八月二十五日は霰が降った。九月二十日夜、割倉山まで雪が降り、二タ時(四時間)ばかり消えなかった。九月二十八日には村里まで雪が降った。

今年六月に御城に神社光堂が建立されて、六月中には牢屋に入れられていた者が皆追放された。(実質的には解放されたと解される)また、追放になった者は所替えとなった。白木山入会事件の惣兵衛は田名部から七戸に所替え。長之助は野田から宮古に所替え。長太郎は五戸市川から花輪に所替えとなった。

④「草井沢本」の記録。「三月十六日 月蝕 欠ける。八月十五日 月蝕 欠ける。」《「歴史年表」より「幕府、浦賀奉行2名に増員。小林一茶「おらが春」(句集)完成。イギリス、シンガポール占領。》

文政三年 庚辰(カノエタツ・・・1820年の記録)   
①正月十二日大雨降る。十三日より晴天が続き、二十三日大雪が降り60cmばかり積もった。二月四日彼岸。三月七日土用(春)。三月二十一日 八十八夜。四月六日霜降る。養蚕が卵からかえったのは四月六日過ぎであった。梅の花は四月に咲いた。

五六月より七月までよく雷が鳴った。大野の三助という人の家は落雷で焼けた。この年 殿様死去。(南部藩主36世利敬公。文政三年五月、盛岡において病に罹る、世子吉次郎なお幼にして北地警衛その他の事に耐えざるを恐れ、南部播磨守を盛岡に下して国政を補佐しめんことを幕府に乞い、六月三日?ず。幕府への書上には六月十五日とある。年39歳。在職37年、聖寿寺に葬る。「南部史要」による)

御代官 寄木佐弥太、仲原中右エ門。牛馬御役人 梅田繁助、太田薗右エ門、江釣子官右エ門、久保逸五郎 (藩内の牛馬掛用人を補佐し、総牛馬改め、およびセリ駒の際に立会い諸帳簿を主管した。牛馬役は代官所に所属し、代官の指揮によって牛馬肝入、馬見役を督励し牛馬籍の調査整理に当たった。「用語・南部藩辞典」)牛馬御役人が四人も沢内代官所に配置された記録は始めてである。それだけ沢内通りには牛馬が多かったということと解される。

この年 作柄は中の上であった。大豆は上々作であった。米一升(1.5kg)の値段は三十四文(850円)であった。以上は「巣郷本」の記録である。

②「下巾本」の記録。「巣郷本」と同じ記録は重複するので省略した。「課税割合は昨年と同じ割合であった。元歩(安永4年の割合)より10%増して納めた。殿様がご逝去されたので「鳴り物」(歌舞音曲)は100日間停止された。「白木野本」にはこの他「村々まで忌中50日間仰せつかった。九月中旬まで普請(人集め、建設工事等)が指し止めになった。

殿様が逝去になり、南部九兵衛様が殿様代わりになるよう幕府から仰せ付けられた。(利敬公の後を次いだのは利敬公の養子「利用」であったが、14歳の若年であったので、南部九兵衛(八戸藩主)が補佐代理役となった。「南部史要」)」と記録されている。

大豆一升の値段は十四五文(約375円)。入石(他領からの買い入れ米)の値段は昨年と同じ一升(1.5kg)三十二三文(825円)くらいであった。六月四日御境御見分(藩境だけでなく、村々の境界争い等を防ぎ、解決のため調査資料を作った「用語・南部藩辞典」)御用に池田左平太が来た。

六月小繋沢の草刈場の境を湯田と桂子沢の老名(おとな・村の肝入の補佐役)を立ち会わせ調査された。六月五日大野村の勘七という者落雷で焼ける(「巣郷本」では「大野の三助という家が焼けた」とあるが「下巾本」では「勘七という者」となって「家」ではなく「勘七という人」個人に落雷したと解される)落雷の多い年だったと思われる。

殿様ご逝去後、新しい政治の仕組みが出されたが、沢内通りは昨年の通りであった。八月頃より猫の伝染病が広がり、多くの猫が死んだ。十月十一日新町に火事があって下町で二軒が焼失した。

③「白木野本」の記録。「巣郷本」「下巾本」と同じ内容記録は省略した。「九月諸御金銭(諸税金)は前年通り三期に分けて納税することになったが、今年は十ヶ月の分割納入になった。十月には御代官様は揃って代わられた。松原勝治様、大須賀左右様は免職になった。代わりに仲原仲右エ門、寄木佐弥太が来られた。関所の御番人様も四度代わられた。 十月追放された者たちが所替わりとなった。越中畑の惣兵衛は七戸から沼宮内へ。長太郎は花輪から大迫へ。長之助は宮古から福岡(二戸市)へ所替えとなった。

④「草井沢」の記録。「二月十六日 月蝕 五分半欠ける。」《「歴史年表」より「幕府、3ヵ年の倹約令を出す。会津藩の相模国沿岸警備を免じ、これを浦賀奉行に命ずる。スペインで革命勃発。》

文政四年 辛巳(カノトミ・・・1821年の記録)
【巣郷本の記録】正月三日立春。十五日雷雨であった。二月十五日彼岸(春分の日)。十六日は吹雪で過去にないほどの寒さであった。彼岸に仏様に供える団子は石ころのように硬く凍り食べることができなかった。春の土用は三月十七日であった。四月十二三日頃より稲の種蒔き始め、五月十二三日頃より田植えを始めた。夏の土用は六月二十日。それから天気は荒れだした。七月四日洪水で寒く秋の彼岸の頃の寒さであった。

「下巾本」には「七月四日大雨にて小川をはじめ川々の橋落ちる。川尻村鬼瀬川、小鬼瀬川端の田畑は決壊し流失した。」と記録され「白木野本」には「七月四日大洪水なる。そのとき中村の多次兵衛の家まで浸水した。」と記録されている。「草井沢本」には洪水の記録はない。

七月九日より天気は良かった。この時期の作柄は当分判断できなかった。七月二十五日洪水にて人々は大変困った。「白木野本」には「七月二十九日大水が出て、細内川の柳橋近くの橋が川となってみな流された。ところどころ洪水のため田畑が決壊し流失した」とある。

「巣郷本」には「七月二十五日」とあり「白木野本」には「七月二十五日」と日付が違う記録となっている。洪水の原因である「雨」の降り始めの「日づけ」と洪水になった「日づけ」の違いと考えられる。作柄は中の下であった。

新町火事、十四軒焼ける。「下巾本」には「十月十日の夜、火事があって十一軒焼ける」と記録。「白木野本」には「十月十日夜、新町大質屋(七屋ともいう)並びに前東にある善兵衛家より出火、総計十一軒が焼失した。乾燥した取り入れ前の稲、大豆に火が移り焼失した。」と記録されている。「大質屋」は一説には「金貸し」もやっていたと言われ、蔵が七つもあることから「七屋」とも呼ばれたという旧家。「善兵衛家」は大地主、杜父魚塾長・古沢襄氏のご先祖の家である。どちらも大家屋であったと思われる。どちらが先に出火したかは不明である。

沢内においては西から東に風が吹くのは一般的である。西にある「大質屋」から東にある「善兵衛家」に飛び火したとも考えられる。焼失した家屋軒数が14軒と11件で3軒の違いがある。この違いは焼けた蔵や倉庫を家屋軒数に入れて数えたかどうかの違いと思われる。御代官 寄木左弥太、仲原仲右エ門。

【下巾本の記録】作柄は中の中(「巣郷本」の作柄は中の下)。課税割合は文政二年の割合と同じ割合であった。去年の通りお受けしたけれども、稲に根腐りや虫が付いて刈り取るに値しない田が所々にあった。 したがって、御引米(年貢米を割り引くことか。割り当て通り納められず借りておく米か。)八十駄(1駄は7斗。105㎏。80駄は8tと400㎏)をお願いした。収穫高を平均し収穫高一石(1石は10斗。150㎏)当たり一歩八厘(18%)の割引があった。

四月二十三日より二十五日まで牛馬の総改め(頭数等を調査・点検し登録する)があった。この年は日照りが続いたと思えば、雨が降り続いたりで気候は不順であった。新町村御同心(代官の下で雑務をおこなった)川村佐左エ門、小田島判左エ門が退任し、喜蔵、喜八が任命された。

六月十七日に上左草の佐兵衛という者の家が落雷で焼失した。「白木野本」にはさらに、「二歳駄馬一頭焼け死んだ」と記録されている。小繋沢の銀山からさらに金属の取立てがあった。この年、古瀬屋兵右エ門が中心となって、川除け普請があった。普請人足の手伝いの他に川欠け部分の工事費を年貢米として湯田村中の人々が手伝い上納した。

【白木野本の記録】新町の高札(法や掟等を書き記して住民に知らせる立て札)を立て替えた。北の蔵(米倉庫)の垣根が立て替えられた。作柄の見込みは「中分」であった。「中分」という言葉はどのような状態を指しているのか分からなかったが「草井沢本」には「田畑ともに半作にあたらず」とあり、後述の文言を読むと「半作」平年の半分以下の作柄であったことが分かる。(原文は「当作中分也」)

沢内中の人々(百姓)は年貢の「引米」(割引、または貸し米)をしていただくように願い出た。その結果、八十七駄(1駄は7斗・105㎏)と片馬(1駄の半分・3斗5升)を下された。沢内中の総収穫高に対しての割引きは一石(10斗・150㎏)につき、一升八合(2.7㎏)であった。

この年の作柄前の安永四年(1775)の年貢割合であったので、どうしても上納ができず、止むを得ず引米を願い出たのであった。その時の御代官は仲原仲右エ門様、寄木左弥太様の二人であった。その内の一人、左弥太様はことごとく怒り散らして人にあたり、少しの金銭も厳しく取り立て、百姓を枯渇させるようなことばかりするので百姓は一騒ぎとなった。

仲右エ門様は御代官に付託された長々とした百姓の願い出たことを心に掛け、雫石、盛岡まで願いに立たれた。内々に雫石、盛岡まで願い出た人数は、新町吉左エ門、湯田喜左エ門、太田肝入六之助はじめ一統(皆々)、川舟肝入多兵衛はじめ一統、桂子沢と白木野からは與三右エ門であった。御代官の寄木左弥太は文政五年の記録では「御免」(失職)となっている。また、百姓たちはさらに騒ぎを起こし処罰を受けている。

【草井沢本の記録】二月一日 日蝕六分欠ける。この年稲はみんな枯れてしまった。田畑共に半作にならず、不作であった。

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