北アジアの異民族が万里の長城を越えて漢民族を蹴散らし、支那本土を支配したのは元王朝と清王朝の二例であろう。
元王朝について言えば、少数の蒙古族が圧倒的多数の漢民族を支配できたのは武力だけではない。巧みな民族分断の支配政治を行っている。
北アジアの異民族が万里の長城を越えて漢民族を蹴散らし、支那本土を支配したのは元王朝と清王朝の二例であろう。
元王朝について言えば、少数の蒙古族が圧倒的多数の漢民族を支配できたのは武力だけではない。巧みな民族分断の支配政治を行っている。
支那上古史を惹かれて黄河流域の漢民族について考えているうちに、その黄河流域を取り囲む周辺にオリエント文明の影響を受けた古代トルコ民族の末裔が作った国家群があったことを知った。
シベリアのバイカル湖を二度にわたって訪れて以来、この地のブリヤート人が約二万年前にマンモスとともに極寒の時代を避けて東進して、一万三千年前には、シベリアのアムール川周辺に到達したとの仮説にとりつかれた。
司馬遼太郎は代表作「坂の上の雲」や「菜の花の沖」書きながら”北アジア史的なもの”を考え続けている。それが「ロシアについて 北方の原形」の作品になった。
日本人の遺伝子には北方系と南方系の「二重構造モデル」がみられるという。日本犬の遺伝子にも「二重構造モデル」があるというのは興味深い。およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきた。その数は七〇〇〇人前後という推定値がある。
元旦から孫とワインを飲んで、いささか酩酊した。一眠りしたら夢の中にシベリアのイルクーツクに流れるアンガラ河という大河が出てきた。
河畔を散策していたらイルクーツ大学の女子学生に出会ったので、写真を撮らせてと所望したらポーズまでとってくれた。ロシア人の多くは人が良い。
「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」・・西郷隆盛が遺した言葉である。西郷は安政元年(1854)4月10日に江戸・小石川の水戸藩邸に東湖を訪れている。
<<坂本大典『日本人の百年戦争』(展転社)>>
この本はペリー来航以来、日本が戦ってきた外圧、とくに薩英戦争、馬関戦争を経て、初の対外戦争である日清・日露、そして第一次世界大戦から満州事変、日支事変から大東亜戦争へといたる、まさに「百年」の戦争を活写する。
百九年前の明治三十八年(一九〇五年)の今日、九月五日、前年の二月から一年七ヶ月にわたって戦われた日露戦争の講話条約が締結され、日露戦争が終結した。日本側全権は、小村寿太郎外務大臣、高平小五郎駐米公使ロシア側全権は、セルゲイ・ウィッテ
■ロイター・コラムでMark Leonard氏が予測
[30日 ロイター]欧州連合(EU)と米国がロシアに対する制裁を強化する一方、それに対するプーチン大統領の報復措置には、米外食大手マクドナルドへの攻撃も含まれるようだ。地政学が経済のグローバル化を逆行させる例として、これ以上象徴的な動きはないだろう。
▼日本列島は北は北海道から南は九州まで自然の猛威に曝されている。これに九月になれば台風の直撃にも備えねばならない。二〇〇〇年の歴史の中で日本人は自然の猛威に耐え、これを克服する努力を重ねて生きてきた。忍従の歴史である。
司馬遼太郎は代表作「坂の上の雲」や「菜の花の沖」書きながら”北アジア史的なもの”を考え続けている。それが「ロシアについて 北方の原形」の作品になった。
戦前の日本は「東洋史」というと「支那史」一色だった。そんな中でインド史やモンゴル史さらには北アジア史を含めた広い意味での「東洋史」を模索した学究がいた。
「シベリア・タイシェットと太平洋パイプライン」がトップ記事で読まれている。最近の太平洋パイプラインのことを記事化したものではない。過去形の記事が何故、読者の関心を呼んでいるのだろうか。
安倍晋三首相が来年2月のロシア・ソチ冬季五輪大会に合わせて訪露し、プーチン大統領と首脳会談を行う方向で最終調整に入ったという。
首相訪ロによって日ロ間の最大課題である北方領土問題が一気に解決する状況にはなっていないが、良好な日ロ関係を背景にして日ロ平和条約の締結に向け首脳間の話し合いをして欲しい。
<昭和23年の10月、義弟の漫画家・岸丈夫から母のところに電話が掛かってきた。
「義姉さん、兄貴の消息が分かったんだ」
「上田の金ちゃん(注記=母・真喜の実弟)から知らせがあったんだ。兄貴は、終戦の翌年の五月には、もう亡くなっていた。兄貴の最後を看取ってくれた戦友が帰国して連絡してくれた」>
中国が日米・日ロ離間策に狂奔している。その尻馬に乗っているのが韓国、遠吠えしているのが北朝鮮という構図がみえる。
ゴールデンウイークというのに安倍政権の主な閣僚は外遊・・・といっても海外見物に出掛けているのではない。安倍首相はロシア訪問に続いてサウジなど中東各国に親善の旅をしている。
日中友好論者が先を争って日露友好論者に看板を塗り替えようとしていると言ったら言い過ぎだろうか。田中角栄の全盛時代に福田赳夫は日ソに目を向けていた。日中に対抗するするために日ソというわけで、シベリア開発に関心を持つ財界人と頻繁に勉強会を持っていた。
シベリアのバイカル湖周辺は約二万年前に人もマンモスも住めない極寒の時代を迎えている。マンモスを狩りしていたブリヤート・モンゴル人は東進を始め、一万三千年前には、シベリアと支那の国境にあるアムール川周辺に到達し、さらに地続きのサハリン、北海道を経て、まず本州の津軽地方に姿を現した。
古代の四世紀は空白だと歴史に関心を持つ人たちはよく言う。北アジア史にしか関心がなかった頃だから聞き流してきた。そんな私をみて「これを読んでみろ」と渡されたのが松本清張氏の「空白の世紀」。だが小説家が書く歴史物なのだから、パラパラとめくって放っておいた。
北方領土問題をめぐる日露首脳会談で双方の見解が一番近くなったのは、「川奈会談」と「イルクーツク会談」だったといわれる。しかし、この首脳会談はいずれも秘密交渉だったから、記者会見が行われたものの真相は定かでない。
東北新幹線の復旧が予想以上に早いテンポで進んでいる。この一ヶ月間、震度四以上の余震が百回も襲っているというのに、このままいけば五月の連休頃には全線が復旧するという。
初めてシベリアのバイカル湖を訪れて10年以上の歳月が去った。その時に通訳についてくれたのがイルクーツク大学日本語学科の女子学生だった。長身で涼しげな目をしたブリヤート娘だったが、聡明で誇り高き性格に惹かれた。
中国人船長を国内法を無視して釈放してしまった事件に関して、大津事件が思い起こされている。来日中のロシア皇太子を襲った凶漢に対して、政府はロシアを怖れて、死罪を求めるが、国内法を守って、それに待ったをかけたのが大審院(最高の司法裁判所)院長・児島惟謙(これかた)だった。
ロシアの沿海州、シベリアの各都市には、二度行ってきたが、どの都市にも赤の広場があってレーニン像や戦車が飾れている。高いモニュメントがあって、大祖国戦争の戦死者の名を刻んだ大きな碑も立っている。その数を合わせると対日戦で、日本軍よりも多くの戦死者を出したことなる。
獄中のホドルコフスキー、釈放求めハンガー・ストライキへ。不正蓄財、脱税、不法送金などプーチンがでっち上げた冤罪。
かつてロシア新興財閥の象徴にしてロシア第二の財閥だったミハイル・ホドルコフスキー(元「ユコス」社長)は03年に突如逮捕されて以来、まだ獄中にある。
先日、久し振りに風呂に入った。と言ってもシャワーだが、43度のお湯を浴びて、全身をシャボンでしっかり洗った。20分もかかったから、風呂嫌いの小生にとってはほとんどショック体験である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「ブリヤート人」の記載がある。まだ書きかけの記載なので、断片的なそしりを免れないが、北アジアの歴史に関心がある方は、一応は目を通しておく必要がある。
さらには司馬遼太郎氏の「ロシアについて 北方の原形」は、北アジアの歴史に関心を寄せた司馬作品の覚え書きとも言うべきものである。「坂の上の雲」や「菜の花の沖」を執筆した七年余り、司馬氏はロシアの特異性について考え続けたと言っている。
多くの日本人のルーツはシベリアのバイカル湖周辺という北方系説が確立したのは、DNA鑑定が決め手となった。それまでは古事記や日本書紀で伝わってきた神々の神話の世界に起源を求めた南方系説が有力であった。
2005年4月27日の盛岡タイムスに「丁字戦法の真実に迫る 岩下秀男氏が山屋他人”海軍戦術”を復刻」という記事が出ている。1993年1月27日から盛岡タイムスは「山屋他人 ある海軍大将の生涯」という129回にわたる連載記事を書いている。
明治海軍は薩摩の西郷従道によって育てられた。兄の西郷隆盛が征韓論を唱えて下野して、薩摩に戻ったときに西郷従道は明治政府に留まっている。明治十年の西南戦争では多くの薩摩士族が西郷隆盛を慕って決起したが、西郷従道は陸軍卿代行になって明治政府の留守を守った。
シベリアのバイカル湖を訪れて印象的だったのは、渡り鳥の王者といわれるインドガンがこの地で繁殖し、厳寒を迎える前に若鳥を伴って、一斉にインド北部を目指して飛び立つ壮大な風景であった。
日本人の遺伝子には北方系と南方系の「二重構造モデル」がみられるという。日本犬の遺伝子にも「二重構造モデル」があるというのは興味深い。およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきた。その数は七〇〇〇人前後という推定値がある。
ロシアに行くと中国のことを「キタイ」と呼ぶ。モンゴルも「キタイ」だ。欧米では「チャイナ」、トルコは「チン」というそうだ。戦前の日本は「支那」と呼んでいた。いずれも蔑視用語でもなければ差別用語でもない。支那大陸の三〇〇〇年の歴史から取った呼称だからだ。
ソバといえば日本固有のものだと思っていた。信州で少年時代を過ごした私は讃岐ウドンよりも戸隠ソバが好きだ。小諸郊外のパブリック・ゴルフ場によく出かけた私は、帰りには必ず小諸市内の名物ソバ屋に立ち寄った。信濃毎日新聞社の旧友が教えてくれた店だが、日本酒を傾けながらソバをつまみ代わりに遅くまで飲んだ。
北アジアや西アジアの歴史に魅せれた私は、中国西北部の詳細地図を書斎に飾っている。それを見ていると遠くイランの地から、草原を渡ってシベリアのバイカル湖まできた古代トルコ民族の姿が浮かんでくる。