奈良時代初期からある古沢黒島の地名 古沢襄

この十五年ほど春が来ると茨城県の下妻市や八千代町を必ずといってよいほど訪れてきた。ことしもその季節がやってきたが、底冷えする陽気に災いされて足が鈍っている。七十八歳の身には寒さが禁物。心は鬼怒川の河畔に飛んでいるが、川風は年々歳々、身に堪える様になった。

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関東で勢威を振るった多賀谷氏の夢の跡 古沢襄

関東で一千挺の鉄砲隊を擁して徳川家康から怖れられた戦国大名・多賀谷氏の居城は、茨城県の下妻市にあった。寛正三年(1462)に下妻城が築城されたが、周辺を沼地に囲まれ、大宝沼と砂沼に挟まれた島状の高台に築かれた水城だったという。

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「沢内年代記」を読み解く(十一)  高橋繁

宝暦七年 丁丑(ヒノトウシ・・・1757年の記録)
①十二月十五日 月蝕。
②田は上作。米は平年以上によい実りであった。しかし、凶作が続いたのでこの年まで難儀(苦労)した。(「下巾本」)
③去年の不作のため、米一升の値段は百三十文(6.500円)であった。(「草井沢本」)

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沢内年代記を総覧的に読み解く高橋繁さん  古沢襄

高橋繁さんの「沢内年代記を読み解く」や私の「孫娘の卒論・退休遺書に教えられる」がよく読まれている。想像も出来なかったが米国や中国の日本人ブログにも転載されていた。私自身も経験があるのだが、海外で一人でホテルの夜を過ごすと、日本が懐かしく愛国者的になる。

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孫娘の卒論「退休遺書」に教えられる 古沢襄

高橋繁さんの<「沢内年代記」を読み解く(十)>は、宝暦六年・丙子(ヒノエネ)一七五六年の記録まで来た。この宝暦年間に遡る延享五年(1748)に作られた沢内・古沢氏の墓碑が残っている。

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「沢内年代記」を読み解く(十)  高橋繁

延享元年 甲子(キノエネ・・・1744年の記録)
①この年から節気を表す暦の組み合わせは、「上段」の組み合わせに従う。
②四月にになり、鶏が羽ばたきするようになった。沢内通りの全ての鶏のことを指しているのだろうか。1742年(寛保2年)の記録に「この年より鶏羽ばたきなし。」とあつたから、それから3年目になって、鶏が羽ばたくということであるから、鶏にとって異常な年が続いたことになる。

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「沢内年代記」を読み解く(九)  高橋繁

元文元年 丙辰(ヒノエタツ・・・1736年)の記録 
①御代官 毛馬内権左エ門 五月沢内にて病死。御代りとして照井多左エ門様お出でになる。葬儀等の後始末は、どうなされたものて゛あろうか。代官毛馬内様の遺体は、ご自宅に運ばれたのであろうか。ご自宅が盛岡にあったとすれば一日がかりのはずである。越中畑の関所役人の妻が亡くなった時には関所役宅の近くに葬ったと伝えられ、お墓もあったということである。当時は土葬がほとんどであったということであるから、あるいは代官所のある新町のどこかにお墓がああるかもしれない。

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東北の馬の由来はツングース系 古沢襄

岩手県沢内村には大正時代の末期まで、茅葺きの私の家があった。共同通信社の政治部長だった小田島房志さんが「君の家屋敷には大きなケヤキの木があって、その前を通りながら小学校に通ったものだ」と述懐していた。小田島さんは沢内村の出身、あだ名は”岩手牛”。私の遠縁に当たる。

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「沢内年代記」を読み解く(八)  高橋繁

享保十二年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1727年の記録) 
①五月は 閏月であった。
②五月二十日 洪水。この洪水は、和賀川の支流である沢々から流れ出る小川だけであった。和賀川の本流は洪水にならなかった。現在の「ゲリラ豪雨」、部分的な大雨による洪水のように思われる。
③御代官 横沢武次右エ門 澤田十右エ門

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学習院廃校を救った山梨勝之進学習院長 古沢襄

共同通信社の社長だった犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。

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不束かなれども宗任様の婦とされたし 古沢襄

松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。

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「沢内年代記」を読み解く(七)  高橋繁

享保二年 丁酉(ヒノトトリ・・・1717年の記録)  
①この年、米の収穫高は平年の半分、「半作」であった。去年の「申」(サル)年は、米の実りが悪く(不塾)であったので、米の値段は上がった。1升(1.5㎏)は、40文(2.000円)から45文(2.250円)になった。《注:この年、大岡越前守忠相江戸町奉行に任命される。幕府、享保元年より「享保の改革」を開始している。「歴史年表」より》

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「沢内年代記」を読み解く(六)  高橋繁

正徳元年 辛卯(カノトウ・・・1711年の記録)  
《注・宝永六年(1709年)1月10日、徳川五代将軍綱吉が没する。5月1日に、綱吉の兄綱重の子を養子にした家宣が六代将軍となる。「生類憐れみの令」は廃止された。「日本歴史年表」より》
①節気の「寒」に入って三十日間 少しの風も吹かなかった。  「少しの風も吹かない30日」の天候はどんなものか。晴れの日が30日続いたのだろうか。吹雪がないのだから、過ごし易かったと思われる。米や農作物の作柄に直接関係のない、冬季での無風であるのが残念であったに違いない。

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「沢内年代記」を読み解く(五)  高橋繁

宝永元年 甲申(キノエサル・・・1704年の記録)
①「改元有テ宝永トナル」 年号が代わって宝永になった。幕府の財政は厳しさを増す一方であったので、勘定奉行、荻原重秀を中心に財政の建て直しに懸命であった。貨幣改鋳し、幕府役人の整理などを実施していることから、財政改革をし豊かな年にするという意味からの改元であるように思われる。

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「沢内年代記」を読み解く(四)  高橋繁

元禄元年 戊辰(ツチノエタツ・・・1688年の記録)  
①越中畑(えっちゅうはた・岩手秋田の県境・南部藩の関所があつた)の者たちが、謀議をこらし、山内村(秋田横手市)の南郷弟助という人の家に、夜、強盗に押し入った。

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「沢内年代記」を読み解く(二)  高橋繁

〔延宝元年 癸丑・・・1673年の記録〕「沢内年代記」の記録の始まりである。

①「寛文十三年に年号が変わって延宝となった」と記されている。
癸丑(ミズノトウシ)は「十干十二支」の組み合わせの年であるから変わらない。年号が変わることを「改元」という。中国では漢の時代から皇帝の交代、治政方針の改正に合わせて改元された。

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アイヌとの同化・融和・共生の歴史 伊勢雅臣

■1.「先住民族の権利に関する国際連合宣言」

平成20(2008)年6月6日、衆参両議院において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決された。それは次のような文章から始まる。

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縄文的なものと弥生的なものの二面性 古沢襄

現代では、松本秀雄氏がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある・・・かなり専門的な説明なので、私流に解説すると

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「沢内年代記」を読み解く 高橋繁

「沢内年代記」は、岩手県西和賀町が「沢内通り」と呼ばれていた時代から伝承された年代記である。

1673年(延宝元年・今から337年前)から始まり、1900年(明治33年)まで記録されている。この年代記は、年毎の農作物の作柄や出来事を記した記録集である。

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