中国が眩しく輝いているように見える。中国経済が巨大化しているために、東南アジアの国々が中国へ草木のように靡いている。日本でも、小沢一郎与党幹事長が数百人の群臣を率いて、北京へ朝貢したことは記憶に新しい。
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沢内年代記を総覧的に読み解く高橋繁さん 古沢襄
高橋繁さんの「沢内年代記を読み解く」や私の「孫娘の卒論・退休遺書に教えられる」がよく読まれている。想像も出来なかったが米国や中国の日本人ブログにも転載されていた。私自身も経験があるのだが、海外で一人でホテルの夜を過ごすと、日本が懐かしく愛国者的になる。
孫娘の卒論「退休遺書」に教えられる 古沢襄
高橋繁さんの<「沢内年代記」を読み解く(十)>は、宝暦六年・丙子(ヒノエネ)一七五六年の記録まで来た。この宝暦年間に遡る延享五年(1748)に作られた沢内・古沢氏の墓碑が残っている。
「沢内年代記」を読み解く(十) 高橋繁
延享元年 甲子(キノエネ・・・1744年の記録)
①この年から節気を表す暦の組み合わせは、「上段」の組み合わせに従う。
②四月にになり、鶏が羽ばたきするようになった。沢内通りの全ての鶏のことを指しているのだろうか。1742年(寛保2年)の記録に「この年より鶏羽ばたきなし。」とあつたから、それから3年目になって、鶏が羽ばたくということであるから、鶏にとって異常な年が続いたことになる。
「沢内年代記」を読み解く(九) 高橋繁
元文元年 丙辰(ヒノエタツ・・・1736年)の記録
①御代官 毛馬内権左エ門 五月沢内にて病死。御代りとして照井多左エ門様お出でになる。葬儀等の後始末は、どうなされたものて゛あろうか。代官毛馬内様の遺体は、ご自宅に運ばれたのであろうか。ご自宅が盛岡にあったとすれば一日がかりのはずである。越中畑の関所役人の妻が亡くなった時には関所役宅の近くに葬ったと伝えられ、お墓もあったということである。当時は土葬がほとんどであったということであるから、あるいは代官所のある新町のどこかにお墓がああるかもしれない。
東北の馬の由来はツングース系 古沢襄
岩手県沢内村には大正時代の末期まで、茅葺きの私の家があった。共同通信社の政治部長だった小田島房志さんが「君の家屋敷には大きなケヤキの木があって、その前を通りながら小学校に通ったものだ」と述懐していた。小田島さんは沢内村の出身、あだ名は”岩手牛”。私の遠縁に当たる。
「沢内年代記」を読み解く(八) 高橋繁
享保十二年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1727年の記録)
①五月は 閏月であった。
②五月二十日 洪水。この洪水は、和賀川の支流である沢々から流れ出る小川だけであった。和賀川の本流は洪水にならなかった。現在の「ゲリラ豪雨」、部分的な大雨による洪水のように思われる。
③御代官 横沢武次右エ門 澤田十右エ門
学習院廃校を救った山梨勝之進学習院長 古沢襄
共同通信社の社長だった犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。
不束かなれども宗任様の婦とされたし 古沢襄
松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。
無礼に怒った鎌倉武士の面目 古沢襄
日本の中世史で興味を惹かれるのは、朝敵・逆賊といわれた足利尊氏が開いた室町幕府である。この時代に中国大陸や朝鮮半島との交流が顕著となって、華麗な室町文化が花開いている。さらには、その前史となる鎌倉幕府とくに北条執権時代が面白い。
「沢内年代記」を読み解く(七) 高橋繁
享保二年 丁酉(ヒノトトリ・・・1717年の記録)
①この年、米の収穫高は平年の半分、「半作」であった。去年の「申」(サル)年は、米の実りが悪く(不塾)であったので、米の値段は上がった。1升(1.5㎏)は、40文(2.000円)から45文(2.250円)になった。《注:この年、大岡越前守忠相江戸町奉行に任命される。幕府、享保元年より「享保の改革」を開始している。「歴史年表」より》