世界はかつて海軍力の増強、建艦競争に狂奔した時代がある。第一次世界大戦がドイツの敗北で終結し、世界に平和が訪れると思ったのもつかの間、アメリカは超弩級戦艦16隻の建造計画に着手した。
太平洋をはさんで支配権を争う日本も建艦計画に着手、イギリスも日米の建艦競争に巻き込まれた。この三カ国で超弩級戦艦の建造計画は36隻以上といわれた。
日本は戦艦8隻、巡洋戦8隻の「八八艦隊計画」を策定、8隻の建造に着手し、さらに8隻の建造が承認されていた。アメリカの世論は日米が建艦競争に走ることに批判的であった。
途方もない超弩級戦艦の建艦競争は、国民経済を圧迫し、何よりも太平洋の日米戦争を招くと警告している。
1921年、米海軍情報部は日本とイギリスの最新建造計画を入手している。その結果、アメリカの新造戦艦は日本やイギリスの新造戦艦よりも劣るという冷厳な現実に直面した。国内世論の反発と日英戦艦の能力差を突破するには、海軍の軍拡競争をアメリカの指導力で阻止せざるを得ない。
ハーデイング米大統領は政治的な決断を行っている。1921年11月11日にワシントンで開かれた第一次世界大戦休戦日で主催国アメリカを代表してヒューズ米国務長官は開会冒頭に世界に対して海軍力制限の爆弾声明を発している。
その内容はアメリカ、イギリス、日本の三国の主力艦をアメリカ五〇万トン、イギリス五〇万トン、日本三〇万トンに制限する提案であった。この提案を飲めば、日本は主力艦八隻の建造計画を放棄せざる得ない。
紆余曲折があったが、日本はワシントン軍縮会議でヒューズ提案を飲んだ。背景には日本の暗号電文がアメリカ側に解読されていた現実がある。日本側の手の内はアメリカ側に筒抜けであった。また日本がアメリカ、イギリスの向こうを張って対等の
建艦競争をする国家財政の余力はなかった。
当時の首相は原敬、ワシントン会議の日本側首席全権は加藤友三郎。原も加藤も建艦競争のシーソーゲームの行き着く先は財政破綻という大局的な見通しを持っていた。しかし原敬はワシントン会議の直前に東京駅頭で右翼の凶刃によって暗殺されている。
加藤は「日米海軍は戦うべからず」という信念を固めている。日本海軍を二分した「条約派」と「艦隊派」の亀裂は深まった。「条約派」の米内光政、山本五十六はまだ登場していない。山本はハーバード大学に留学中だった。
1930年、イギリスのロンドンで開かれた海軍軍縮会議の主要議題は、ワシントン会議では議題とされなかった補助艦(大型巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の削減が交渉議題となった。交渉結果は対米比率6・75.まずまずの成果とといえるが、東郷平八郎元帥を頂点とする艦隊派は激しく反発する。山本五十六(大佐)は随員として会議に参加していた。
ひるがえって、いまの空母建艦競争は、中国海軍の海洋進出に触発された動きといえるが、空母一隻では潜水艦の魚雷攻撃にひとたまりもない。米第七艦隊のように空母護衛艦隊が必要になる。その建艦費用は膨大なものになる。
中国の空母「遼寧」も単独では”張り子の虎”でしかない。ワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議の歴史が示す様に国家財政を破綻に導く空母建艦競争の愚かさに世界は早く気がつくべきではないか。