隘路に迷い込んだ朴槿恵大統領   古澤襄

七年前に朴槿恵氏のことを書いたことがある。いずれ韓国の女性・初代大統領になると予見したからである。反日の盧武鉉大統領に比して朴槿恵は反日色が薄かった。

それが大統領になったら、盧武鉉よりもしつこい反日になった。この原因のひとつは、韓国メデイアの反日キャンペーンに影響されていると思う。政権維持のために反日メデイアに迎合しているといっても過言ではない。

しかも盧武鉉よりも北京依存色が濃い。女性特有の感覚で北京に依存することによって、北朝鮮の南下を押さえる計算が働いたのであろう。

しかし、このやり方によって日韓関係は最悪ともいえるくらい冷え込んだ。結果として韓国経済は回復が見込めないくらい落ち込んだ。日韓の良好な経済関係を構築することによって、韓国経済の再生をはかることに朴槿恵の思いは至らない。

その一方で米韓の軍事的な結びつきを強化しているから、北朝鮮は朴槿恵を名指しで攻撃するに至った。北京依存が効を奏していない。朴槿恵の政治的な判断は間違っている。いわば隘路に迷い込んだといえる。

朴槿恵が為すべき政策判断は、韓国経済の再生に力点を置くことにある。それには日韓経済関係を修復する政治判断が欠かせない。慰安婦問題をしつこく訴えるパフォマンスは、韓国にとっても利益にはならない。

■ワシントン・ポストの外交専門記者だったドン・オーバードファーが四年間の歳月をかけた「二つのコリア」は、十五年後の今日でも朝鮮半島現代史を読み解くうえで、最高の傑作であろう。

私は六年前に韓国野党・ハンナラ党の朴槿恵(パク・クネ)代表が、暴漢に襲われ重い傷をおった事件を知って、ハンナラ党の「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれた彼女に興味を持った。盧武鉉大統領の時代のことである。

そして、いつの日にか韓国で初めての女性大統領として登場するに違いないと確信に近い予感すら覚えた。そのうえで長文の「母の陸英修の再来か 朴槿恵」の記事を書いている。

ドン・オーバードファーも朴槿恵に関しては、かなり詳しく記述を残している。当時は五十四歳だった朴槿恵は、いまは六十歳。(現在は六十一歳)あらためて六年前の記事をそのまま再掲した。

<(再掲)ドン・オーバードファーの「二つのコリア」を読み返している。ワシントン・ポストの外交専門記者だったオーバードファーが四年間の歳月をかけたこの著作は、九年後の今日でも朝鮮半島現代史として光芒を失っていない。

現代史家は書斎の中で頭を使って書くので、多くの文献の孫引きになるきらいが拭えないが、このコリア・ウオッチャーは足で稼ぐ四百五十回のインタビュー取材が基本になっている。さらに未公開の政府資料、軍機密文書を入手して実証的な分析を行った。

「二つのコリア」を本棚から探して、あらためて読む気になったのは、ソウル発の共同電で韓国野党・ハンナラ党党首の朴槿恵(パク・クネ)代表が、暴漢に襲われ重い傷をおった記事を読んだからである。

朴槿恵は韓国大統領・朴正煕(パクチョンヒ)の長女。1974年8月15日に文世光事件で母親の陸英修(ユクヨンス)が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、1979年に父親が暗殺されるまでファースト・レディー役を務めた。

父と母を暗殺という忌まわしい事件で、失った数奇な運命を持つ女性だが、ハンナラ党の「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、2007年の韓国次期大統領選の有力候補の一人。凛とした美貌で人気がある。五十四歳の未婚女性。

盧武鉉大統領は北朝鮮による拉致問題には関心が薄いが、朴槿恵は訪韓した横田滋さんと会って、日韓が協力して拉致問題の解決に当たる姿勢を示している。次期大統領選の前哨戦といわれる統一地方選の最中、ソウル市内で遊説中に朴槿恵は暴漢から、カッターナイフで右ほおに長さ約10センチの傷を負った。

ソウル市長選はハンナラ党の呉世勲候補が優勢な戦いを進めているが、朴槿恵が襲われたことによって、地滑り的な勝利をおさめるのではないか。統一地方選挙でも盧武鉉のウリ党は各地で苦戦している。失地回復のために、金正日総書記との首脳会談を何としてでも実現したい、という盧武鉉の思惑がミエミエである。

その盧武鉉からすれば、北朝鮮を刺激する横田滋さんの訪韓は、迷惑至極ということになる。黙殺した理由は、そこにある。日本における韓国民団が朝鮮総連との和解に動いたのも、盧武鉉の世論操作とみるべきであろう。だが朴槿恵ハンナラ党の代表は、盧武鉉が無視した横田滋さんと会った。韓国マスコミも取り上げ、国民の間でも拉致問題が初めて話題となっている。

そこに降ってわいたような朴槿恵襲撃事件である。多くの国民は、あらためて朴槿恵の父と母の悲劇的な暗殺を思い起こしている。盧武鉉にとって想定外の出来事が起こってしまったことになる。おまけに北朝鮮は盧武鉉の平壌訪問を高く売りつける強かな駆け引きをみせている。

ところで「二つのコリア」には、朴正煕について面白い記述がある。戦時中に満州の日本軍官学校を卒業して少尉に任官した朴正煕は、戦後、韓国軍士官学校に入って陸軍将校になるが、1948年に麗水(ヨス)叛乱事件に連座して軍事法廷で死刑判決を受けている。

麗水叛乱事件とは、共産主義者の指導下にある一部の韓国軍が、命令に服さず「人民共和国」を宣言した事件。朴正煕は韓国軍士官学校における共産党細胞の指導者だったとして逮捕された。これは李承晩(イスンマン)大統領によって減刑、その後、転向して軍に復帰している。

1961年、朴正煕大佐が軍事クーデターのリーダーとして登場したが、ワシントンのケネデイ政権は朴正煕の過去の経歴からして、共産党の秘密党員という疑いを持っている。そしてCIAは大統領官邸がある青瓦台に盗聴装置まで仕掛けていた。朴正煕時代の米韓関係は冷え切ったものであった。

陸英修は在日韓国人の文世光(ムンセグアン)の銃弾によって倒れた。使用した拳銃は、日本警察の交番から盗みだした38口径。逮捕後、文世光は在日北朝鮮系の工作員から指示と援護を受けたと自白、自ら「革命戦士」と名乗っている。

暗殺のターゲットは、ソウル国立劇場で演説した朴正煕だったのだが、会場にまぎれ込んだ文世光は、緊張のあまり拳銃の引き金に指がかかって暴発、慌てて早撃ちをしながら通路を駆け下りた一発が陸英修の命を奪った。

その時、陸英修は鮮やかなオレンジ色の韓国服を身にまとっていたという。オーバードファーの目撃証言である。瀕死の傷をおった陸英修は数時間後に病院で死亡している。

「大統領警護官と暗殺犯の乱闘が起きている間、私は朴正煕の姿を見失った。しかし秩序は思ったより早く数分間で回復した。驚いたことに朴正煕は演説文を再び読み始めた。退場するとき、彼は妻の靴とハンドバッグが彼女の座っていた椅子の下に転がっているのに気付き、それを拾い出て行った」とオーバードファーは書いている。

朴正煕は、李承晩独裁政権によって悪化した対日関係を修復し、日本の経済発展をモデルにした経済システムを韓国にもたらした功績がある。しかし武力で権力を掌握した強権・独裁政治によって、反対者を拘留、逮捕、投獄する暗黒政治でもあった。

暗いイメージが付きまとう朴正煕に較べて、陸英修は優雅で魅力的な姿をし、はきはき喋った。「これは夫がまるで持ち合わせない要素だった。彼女は朴正煕が均衡と抑制を保つための役割を果たし、世の中の考えを知らせる反響装置となり、人間的な影響を彼に与えた。彼女の死後、朴正煕は一層、孤独となり、引きこもり、人々から疎遠になった」とオーバードファーは陸英修の死を悼んでいる。

1979年10月26日、朴正煕はKCIA部長の金載圭(キムジェギュ)によって暗殺されて、この世を去った。長女の朴槿恵は父親よりも、母親似の性格だという。あまり暗いイメージがなく、優雅で、はきはき喋る物腰から、陸英修の再来だという人もいる。そうであって欲しいと願うのは、私だけではあるまい。(杜父魚ブログ 2006・7・12)>

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