草原の民・古代トルコ民族の足跡  古沢襄

戦前の日本は「東洋史」というと「支那史」一色だった。そんな中でインド史やモンゴル史さらには北アジア史を含めた広い意味での「東洋史」を模索した学究がいた。

東大名誉教授で北方アジア史の泰斗・護雅夫氏もその一人だが、同氏の「古代トルコ民族史研究」Ⅰ、Ⅱ巻は、いまの日本が目指すべき広い意味でのアジア外交を示唆している。
この研究書は東洋史を専攻した私でも難解だったが、繰り返し読んでいる中に私なりの理解をすることが出来た。研究書を狭くとらえれば、戦後の突厥史研究などの研究論文の集大成なのだが、もっと広い目で読むと草原の民だった古代トルコ人がユーラシア大陸で壮大な歴史を遺した足跡でもある。

護雅夫氏は序文で次のように述べている。

①私の研究生活は、1943年9月に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業したさい、より正確にいうと、1945年9月、軍務から解放されて、大学院特別研究生に採用されたときにはじまる。

それ以来、わたしの研究対象は、モンゴル帝国からはじまって、突厥、鉄勒、高車、丁零、そして匈奴へとさかのぼり、ふたたび突厥、ウイグルへとくだっていった。

②このように、わたしの北アジア史研究は、大体、古くは匈奴から新しくはモンゴル帝国におよんでいるが、その中心は匈奴、突厥、モンゴル帝国にあった。

わたしが突厥史研究をはじめたときには、古代チュルク語について何らの知識をも持ち合わせていなかった。

③1958年から59年にかけて、トルコとドイツに留学し、イスタンブル大学のアラト教授とハンブルグ大学のフォン・ガベン教授とから、古代チュルク語の手ほどきをうけたが、帰国後も、主として漢文史料に拠りつつ「突厥第一帝国」の研究をつづけた。

もう10年以上も前のことになるが、ロシアのブリヤート・モンゴル共和国を訪れて、日本人と変わらない風貌のブリヤート人に接して驚嘆した。そこからバイカル湖周辺のブリヤート人が古代日本人のルーツだという仮説を立てた。

それ以来「マリタ遺跡と古代ブリヤート人」「ツングースの扶余族が大和国家を創った」「日本人のルーツ・ブリヤート人」「聡明で誇り高きブリヤート娘たち」「”雑学”の大家・司馬遼太郎」「友好関係が深まるモンゴル」を杜父魚文庫ブログに書いてきている。
ブリヤート人はまさしく古代トルコ民族の末裔である。古代トルコ民族の版図の北限がバイカル湖周辺であって、そこに至る中央アジア諸国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)も古代トルコ民族の足跡が残っている。

いまのトルコ人やモンゴル人が古代トルコ民族そのものと断定するのは無理があるが、他民族との血の混交があっても、古代トルコ民族の末裔であるのは疑う余地がない。

共通しているのは、日本人に対する友好的な感情である。この歴史的、文化的な繋がりを日本人は大切にすべきではないか。

これらの国は首相の靖国参拝で異を唱えない。もっと深い歴史的、文化的な繋がりで日本を見ている。日本も経済という目だけでなく、これらの国との友好関係に力を入れる必要がある。それが安倍外交の新たな展開の眼目になることを願っている。

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