元旦から孫とワインを飲んで、いささか酩酊した。一眠りしたら夢の中にシベリアのイルクーツクに流れるアンガラ河という大河が出てきた。
河畔を散策していたらイルクーツ大学の女子学生に出会ったので、写真を撮らせてと所望したらポーズまでとってくれた。ロシア人の多くは人が良い。
通訳もイルクーツ大学の女子学生だったが、私が「キタイ」(=中国人)ではなく「ヤポンスキー」(=日本人)だと言ったので警戒心を解いたのだと教えてくれた。
このイルクーツクをロシア人は、シベリアのパリと自慢する。石畳の道だけ見ればパリなのかもしれないが、とてもパリとは思えない。
だが不毛の低湿地だったシベリアに紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇年にかけて青銅器文化が興っている。ミヌシンスク遺跡の発掘によってそれを裏付けられた。その頃の日本は縄文時代の闇の中にあった。古代オリエントから伝わった青銅の冶金技術がシベリアで開花していたのだから、自慢するならそっちの方だろう。
漢代の中国の歴史資料でも紀元前三世紀から五世紀にかけてシベリアのバイカル湖周辺の丁零(ていれい)というトルコ系と思われる遊牧民国家が成立して交易を行っている。
また高車(こうしゃ)というトルコ系の遊牧民国家も存在した。このほか堅昆(けんこん)というトルコ系の遊牧民族もいて、高度の冶金技術を持っていたとある。これらの遊牧民国家は匈奴によって滅ばされ併合の憂き目に合っている。
今の世界地図のトルコからみれば、シベリアとトルコを結びつけるのは困難だが、トルコ族の故郷はイラン北方にある。北インドで王朝を築いたキルジー部族やトウグラク王朝もトルコ種だといわれる。
草原の剽悍なトルコ遊牧騎馬民族は、この頃四方八方に草原を求めて散り、その一部がバイカル湖周辺に至ったのであろう。そして原住民のブリヤート人との混血が行われた。アンガラ河畔で会った女子学生の一人は明らかにブリヤートとの混血。
ところがブリヤート人はブリヤート・モンゴルといわれるのを好まない。
モンゴルとは同根の民であっても、長い歴史の中で異種ともいうべき違いが生まれている。目が細く、小柄な高地モンゴルに較べて、バイカル湖周辺の低地モンゴルはパッチリとした大きな目、さらには長身の特徴がある。トルコ種、ロシア種の混血によって違ったモンゴルが生まれたのだろう。
それだけでない。十三世紀にチンギス汗とその子孫がロシア全土を征服し、その版図は西のヨーロッパ・ロシアから東のシベリアに及んだ。信じ難いことだが、サハリン(樺太)もモンゴル帝国の支配下に置かれた。この壮大な版図を支配したキプチャク汗国は、一万のモンゴル騎兵とその配下にあるトルコ系遊牧民族だけで圧政を行っている。
草原地に根拠地を置いてロシア人を監視し、ひとたび反乱の兆しがあれば、機動力に優れたモンゴル騎兵が殺到して、殺戮を繰り返し、町を焼き、破壊し、住民を皆殺しにした。西欧で花のルネサンスが咲き誇っていた時期のことである。その時代にロシア人は「タタールのくびき」と呼ばれた暗黒時代に置かれている。
だから、いまでも”モンゴル”という言葉はロシアでは禁句。
しかし二百五十九年間に及んだ「タタールのくびき」は、あっけなく崩壊する。キプチャク汗国の分家筋に当たるクリム汗が、ロシア大公イヴァン三世と結んで、キプチャク汗国にとどめを刺した。
そのクリム汗国も、ロシアのエカテリーナ女帝の時代に近代化された軍勢によって滅ぼされた。一七八三年のことである。クリム汗国は今のクリミア半島を中心とした草原を支配地としていて、クリム共和国の人たちは混血を繰り返しているが、まさしくモンゴル騎兵の末裔である。
帝政ロシアが成立するまで、これだけの歴史が存在する。帝政ロシアになって、シベリア征服の先兵となったコザックはロシア人だが、辺境に住むカザークという種族で、剽悍な騎馬民族である。
一五八一年に数百のコザック騎兵がロシア皇帝・イヴァン四世(雷帝)の命を受けてシベリアを目指したが、大砲や銃を携行した。バイカル湖湖畔の草原で遊牧していた精悍で誇り高いブリヤート騎兵は、コザックと勇敢に戦っている。