明日の夜は奥羽山脈のふところに抱かれた西和賀で星を眺めることになる。NHKの朝ドラ「どんど晴れ」で、盛岡で見る星空は東京のそれよりも近くに感じられるという言葉があった。西和賀の星は盛岡の星よりも、もっと近くに感じられる。
本を読んだり、パソコンを叩いて疲れた目も遠くの星空を眺めていると癒される。東北の農村地帯は、今が一番緑豊かな季節である。その緑を見ていると目の疲れが、さらに癒される。数日は、本も新聞もテレビも見ないで、村人とたわいのない話に興じながら、温泉に入ったり、ドブロクを飲んだりして過ごす。
疲れればお寺の本堂の隅でゴロ寝して、しばしの時を過ごすのだが、開け放された窓から、森を通り抜けてくる風が入ってくる。お寺の裏山には時折熊が出るのだが、この十年間、まだ熊には出会ったことがない。
何よりも水がおいしい。お寺の裏庭には保健所から村一番の名水とお墨付きを貰った清水がコンコンと湧き出ている。洒落心がある全英和尚は”一点水”と名付けた。和尚の奥さんが「マンズ、マンズ」と言いながら、その水を沸かしてお茶を振る舞ってくれる。
私に方は「ンダ、ンダ」と相づちを打ちながら、何杯でもお茶のお代わりを所望する。昼になれば、村の川端食堂からラーメンをお寺に配達して貰う。配達してくる間にツユの味がラーメンに馴染んでくるので私の好物となった。昨日、和尚から電話があったので「川端のラーメンを注文しておいてよ」と頼んでおいた。
こんな生活をしていれば、長生きができる。この村で二十年間も助役をやった佐々木吉男さんは九十五歳。九十歳になるまでは毎晩、一升酒をうまそうに飲んでいたが、今では酒量が落ちたと嘆く。それでも私が行くと、いくらでも酒を飲みながら古沢元の昔話を聞かせてくれる。
古沢元が生きていれば九十九歳。佐々木吉男さんとは新町小学校で机を並べた仲だ。「男気のある秀才でガンシタ」と往事を懐かしむ。文学碑の建立に当たっては、村人から推されて建立委員長となった。十年前のことである。
一九三六年(昭和11)の九月から十月にかけて北海道で陸軍の特別大演習があった。ソ連を仮想敵にした実戦的な演習だったが、若き佐々木老は青森・弘前の第八師団第三十一連隊の兵卒で参加している。
第三十一連隊は昭和天皇の皇弟である陸軍少佐・秩父宮が第三大隊の大隊長。第三大隊は満州事変で、中国の張学良軍に包囲されたが、自力で脱出した武運赫々たる部隊。東北と九州の部隊は、日本陸軍の中でも最強といわれている。最弱は東京と大阪の部隊と相場が決まっていた。
「えらいことになった!」と佐々木二等兵は、秩父宮少佐の目にとまらない様に汲々としていたという。しかし秩父宮少佐は皇弟らしくない庶民的で人情味ある上官であった。長身の秩父宮は6キロ行軍で雨中行進になると「外套を着ろ!」と命令したが、自分は外套もマントも着ない。ズブ濡れになって、行進の先頭に立つ秩父宮をみている中に、佐々木二等兵は「侠気のある人だ」と猛烈に好きになる。
それが北海道特別大演習で佐々木二等兵は衛生兵として秩父宮と一緒に行動することを命じられた。農家の納屋で一泊した時には、皇弟ともあろう人が・・・と寝ずに張り番をしている。
そんな佐々木二等兵のことを秩父宮は見ていたのであろう。ある日「ソバとは何か!」と突然、質問してきた。面食らった佐々木衛生兵は「食べれば、分かるであります」と直立不動。北海道は最大のソバ生産地。誰かが、そうお話をしたのかもしれない。皇室ではソバを食べないのかと、不思議に思ったそうだ。
大演習が終わって弘前に戻ったら佐々木老は秩父宮少佐から呼び出しを受けた。大隊長室に出頭すると「ソバを食べる」と命令された。騎乗して弘前市内のソバ屋に向かう秩父宮大隊長を追う佐々木二等兵の姿は想像しただけでも面白い。明日の夜は、また佐々木老から秩父宮とソバの話を聞くことになるかもしれない。