NHKの大河ドラマ「篤姫」が高視聴率を得ているそうだ。三年間の福岡支社長時代に年に二、三度は鹿児島に行っているのだが、天璋院が薩摩・島津藩の出であるとは、迂闊にも知らないでいた。関心はもっぱら西郷隆盛。
あらためて宮尾登美子著「天璋院篤姫」を読んでいる。宮崎あおいさんの熱演には好感を持つが、晩年の天璋院に扮するのは大変でないかと余計な心配をしたりする。
藤田東湖の資料はかなり持っているので、そこから薩摩藩に島津斉彬という幕末の名君がいたことは承知している。鹿児島に尚古集成館がある。島津家の別邸「仙巌園」の中にあるので、一度は見学に訪れたいと思いながら果たせないでいる。
ことしは島津斉彬没後、百五十年のフシ目に当たる。「篤姫」ブームで尚古集成館を訪れる観光客も増えているという。島津斉彬が亡くなったのは1858年、その一年前に撮影された写真が保存されている。
<島津斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、安政元年(1854年)、西洋式帆船・伊呂波丸を完成させ、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上している。
日の丸を日本船章にすべきだと献策し、同年に幕府に正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となってゆく。また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。
斉彬は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂、水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らと共に幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。
特に斉彬はアメリカのペリー艦隊以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。また、嘉永6年(1853年)11月に既に大石寺に帰依していた、島津の血を引く南部八戸藩主南部信順の強い勧めにより、養女である篤姫とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依した。
安政4年(1857年)の阿部正弘の死後、安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立した。第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせる(家定の死により落飾した後に「天璋院」と名乗る。)などしている。
一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となってしまい、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
斉彬はこれに対し、藩兵5000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかしその年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して、7月16日に死去した。享年50。そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとあわせ、父の斉興や弟の久光、またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。(ウイキペデイア)>
明治維新の夜明けを待たずに島津斉彬が亡くなったのは惜しみてあまりある。大政奉還、江戸城開城という動乱期を生きた天璋院は、維新後、徳川宗家を支えて明治16年11月20日に亡くなった。翌年に華族令が定められ徳川宗家は公爵に叙せられている。