真田一族の出自の謎 古沢襄

二〇〇七年だから二年前になる。知将・真田幸村を生んだ真田一族の出自は研究家によって様々な考察が行われてきたが定説がない。私も調べたことがあるが、奥行きが深くて調べれば調べるほど暗中模索に陥った。サジを投げて「真田の不思議について」というエッセイを書いたことがある。

そうしたら信濃大門というペンネームの方からご教示を得た。

<長野県東御市の深井氏をかつて研究したことがあります。真田家は海野氏の分流ですが、海野家の本流とすることに深井氏が大きく係わっていたようです。

深井氏は、村上氏により上州に追われてもかつての領土に戻るために、相当の帰郷の執着心で真田家に協力したようでした。真田右馬助綱吉という人物が古文書(生島足島神社)に出てくるのですが、戦国真田家の解明は、この人物が鍵のように思います>

という内容であった。この方は「思考の部屋」というブログを持っている。深井氏の存在についても詳しい。真田一族の出自を深井氏の存在から究明する手法は、たしかに有力な手がかりになる。

     http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/s/%BF%BF%C5%C4

真田一族の研究家に小林計一郎氏がいる。小林氏もまた深井氏に注目していた。

<清和天皇の皇子貞保親王が眼病に罹って信濃国浅間温泉で深井某の家に滞在して湯治につとめられた。視力が回復せずにめくらになってしまわれたので、小県郡望月郷海野白鳥庄にお住みになり、深井の娘との間に御子が生まれ、海野小太郎幸恒と名付けた。親王がおかくれにになった後に滋野天皇とおくり名した。>

これは「真武内伝」によっている。真武内伝は松代藩士・竹内軌定が編纂した真田家の歴史である。江戸時代の享保十六年の作だから脚色があっても可笑しくない。小林氏も「もとよりそのまま信用できる話ではない」と断っている。ただ古族滋野氏の存在は史料的にみて信用出来るとしている。

信濃大門氏は「古族深井氏の研究に当たって」の小論で次の様な指摘をしてている。

<長野県の東信地区の東部町は、平成16年の北佐久郡北御牧村との合併で東御市となった。旧東部町和(かのう)地区には、深い地籍があり、室町期には小県郡下の深井郷として存在していた。その後上深井、下深井地籍に区分されたが、明治になってからは小県郡和村となり字名で東深井、西深井になった。

現在、東深井には、深井姓の方々が居られる。

中でも深井幸侊宅は、祖先の深井棟廣が、海野氏の家臣で戦国期に村上氏と海野氏との戦いで海野棟綱とともに上州追いやられた。

その後戦国混乱期における一族の存亡をかけての内紛により、真田氏の配下となったが、策略家真田氏により深井棟廣、海野棟綱の兄弟は謀殺された。

その後深井棟廣の養子深井綱吉も真田の手により謀殺されたが、その子深井三弥は真田昌幸の家臣となり孫深井外記は幸村の家臣となり一族の存亡を願ったが幸村の配下となた深井外記は1614年(慶長19年)の夏の陣で討ち死にした。

深井外記の子深井右馬助は真田信之の家臣となって松代に移ったが、元和8年(1622年)に真田信之家臣団48騎が松代を退去した事件があっり、その際に48騎の一員であった深井右馬助は、旧地(深井郷)に帰農することを決意し東深井に戻った。

私がこの古族に興味を持ったのは、東信地区における渡来人、滋野氏、海野氏、真田氏を研究すると、調べれば調べるほど深井氏の存在が気になったからである。

深井幸侊氏の父は亡深井 正(次男であるが家督を相続、長男は深井小太郎で、小太郎は海野小太郎の子孫であることからその祖父深井邦信が命名したとのことである)氏である。

深井 正氏がご存命であったころ、長野郷土史研究会の小林計一郎先生が訪れ調査されたとのことで、先生の著書「真田一族」にも紹介されている。>

いずれにしても真田一族の出自は古族滋野氏と関係がある。だが真田氏の本願は上田盆地の北東に位置する小県郡真田町真田(現在は上田市)だから、海野小太郎の嫡流でないことは明らかである。海野氏の傍流とみるべきであろう。

しかし山間の小豪族に過ぎない真田氏が甲斐の武田、越後の上杉、関東の後北条という強豪に囲まれて、生き延びるためには、古族滋野氏の直系を号する必要があった、滋野一族では海野、禰津、望月がご三家といわれ、海野氏が宗家となった。この海野氏は武田信玄によって信濃国から追われてしまう。

真田幸隆の代になって武田氏に臣従し旧領を回復したが、幸隆の前半生を示す史料は皆無、幸隆以前の当主の存在を示す墓碑なども無い。海野直系を名乗るために、真田本来の家系を示すものを、すべて消し去ったという説がある。

小豪族だった故に調略を駆使して「比興表裏の者」といわれた真田一族だが、それは戦国の世に生き延びる方便であった。だから真田幸村の縦横無尽の活躍は後世に伝わって、世人の喝采を浴びたとも言える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です