信州と信濃国  信濃大門

平成16年5月20日付の信濃毎日新聞文化面に市川県立歴史館館長の信州という地名は鎌倉時代に僧侶が普及という小論が掲載されていた。

信州という言葉の今日文献上確認される最古のものは、平安後期の治承3年(1179年)仁科盛家が八坂村の覚音寺に千手観音像を造立した。

この観音像の胎内に「東山道信州安曇郡」と書かれているのが最古とのことである。

「信州県」などとつまらないことが論議されたときに信州という言葉はいつごろから使われたのかと考えたが、「東山道信州・・」のことは知らなかった。

ただ甲陽軍艦という書物に「信州先方衆」という言葉があり武田軍たる甲州軍の中の信州の一部隊(真田信綱200騎等)の位置づけで記されていたことは、何となく思い出したが、それよりもさかのぼること300年前から使われていたことは、知らなかっただけにその古さにびっくりした。

信州という言葉は、長野県の歴史に関する各種の解説書では、鎌倉時代ころからよく使われ戦国期になると信州が、甲州、上州などとともに頻繁に使われている。

不思議なのは徳川初期に五街道が設置され奥州道中、甲州道中はあるが信州道中の呼び名は無い。江戸期になると甲州街道、遠州街道の呼び方はあるが信州街道の呼び名はその後もついに無かった。

時代も下り幕末の慶応4年の赤報隊連判状での個人の住所地の記載方は、「信州佐久郡・・・」であり、これらの者を処刑した藩側の記載方も同様である。

これを見ると私用、公式の別なく「信州」が使用されていたことが判る。その後、長野県の成立とともに「信濃国」「信州」は、愛称的に使用され今日に至っている。

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