東北の馬の由来はツングース系 古沢襄

岩手県沢内村には大正時代の末期まで、茅葺きの私の家があった。共同通信社の政治部長だった小田島房志さんが「君の家屋敷には大きなケヤキの木があって、その前を通りながら小学校に通ったものだ」と述懐していた。小田島さんは沢内村の出身、あだ名は”岩手牛”。私の遠縁に当たる。

この茅葺きの家は「部屋数だけで十七もある寺のやうな邸」「部落では、ただ一軒の総白壁」「部落の耕地のおよそ七割を持っている分限の邸」(古沢元 びしゃもんだて夜話)だったというが、昭和生まれの私には知る由もない。ただ一枚だけ残った茅葺きの家の写真があるが、田舎のあばら屋の風情で、とても邸といえる代物ではない。

この家で曾祖父夫妻、祖父夫妻、父とその弟、小作頭夫妻とその子供たちが住んでていた。典型的な大家族だったのだが、身の丈四尺足らずの北海道産の駄馬も同居していたという。人間と馬がひとつ家で住む生活なんて、東京生まれの私には想像も出来なかった。

東北の馬産は有名である。南部駒を飼わずに北海道産の駄馬を飼ったのも不思議であった。家の中で一緒に暮らすには、身の丈四尺足らずの道産馬の方が都合が良かったのかもしれない。

そんなことを考えている中に馬のことに興味を持った。福岡支社長時代に宮崎県都井岬の野生馬をわざわざ見に行った。野生種はほとんど絶滅したので、半野生状態で生息していると説明された。

人間と犬の歴史は古いが、それに較べれば人間と馬の歴史は新しい。太古の昔には馬は食用だったという。その馬を騎乗用に使った人間の知恵はたいしたものだと思う。

東北の馬の由来について、新野直吉氏の「相染の神」(『古代東北日本の謎』)は次のように言っている。

<<沿海州から狭い間宮海峡を渡って樺太島に至り、陸上を南下して、次に広くもない宗谷海峡を渡り、北海道島に上陸して更に南下し、津軽海峡を越えるという水陸交互の経路こそ、安全でもあり、馬糧の採取にも便利な道程である。

筏に土を積載して相当の馬を曳航することが可能であったと考えられるからである。沿海州から中国東北部旧満州・朝鮮半島北部などは、騎馬民族の天地である。

そこの人々は、とりわけ馬を大切にし、名馬の育成に努めたに違いない。その名馬は、北の馬みちこそ最も妥当な来日の経路なのである。騎馬民族の国ではない朝鮮半島南部の小型馬地帯から、大型の名馬が伝わった可能性は極めて小さい。>>

北方産の馬は「胡馬」といった。

東北の馬については、平安時代の「扶桑略記」(1097)に「(奈良時代初期の)養老2年(718)に出羽の渡り島(男鹿半島)の蝦夷八十七人が、1000匹の馬を朝廷に献上した」という記録がある。畿内は朝鮮半島南部からの小型馬が多かったから、東北の大型馬が珍重されたのではないか。

「藤原保則伝」には「権門の者、年来、善馬・良鷹を求めて夷地に集まる」とある。日本ではじめて馬を輸入したのは、五世紀というのが定説となっている。朝鮮半島で日本軍が、高句麗の騎馬部隊に敗れて、馬の威力に注目し、朝鮮半島の南部から馬や馬具を輸入することになった。

だが東北はまだ化外の国であった。新野直吉氏は「みちのくの馬は、沿海州の渤海国から入ってきた」という別ルート説を唱えている。畿内の百済系の馬と別ルートのツングース系の北方馬が東北に入ってきたのは面白い。

渤海国は満州の北部から沿海州にかけての靺鞨族(ツングース族)が建国している。その靺鞨(まつかつ)族が七世紀にシベリアからサハリンを通り、北海道にまで進出してきた歴史がある。

関八州を制覇した平将門は百済系の馬を使わずに高句麗系の馬を放牧して軍事用に使った。この頃には高句麗からの渡来民が関東地方にも定住していた。京都の平家を滅ぼした源義経の軍団が使ったのも東北の馬であった。

三世紀の「魏志倭人伝」には、当時の日本列島には馬は生存していなかったと記述されている。馬が生存していなかったのか、馬を食用に供する風習がなかったのか分からない。案外、古代日本人を横目にみながら、野生馬が野山を駆け巡っていたと想像を逞しくしている。

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