「沢内年代記」を読み解く(二十一)  高橋繁

文化十一年 甲戌(キノエイヌ・・・1814年の記録)   
☆巣郷本の記録様式変わる ☆作柄凶作 ☆女性は眉毛を剃れ ☆隠し鋳銭座焼かれる ☆下前に隠し鋳銭座立つ
①春雪がたいへん多く降り、四月十日頃まで所々に雪が消えずに残った。旧暦の四月は現在の五月に当たる。「所々に雪がある」というのは家の軒下や日陰だけでなく、田畑の「所々」にも雪が残ったということである。四月十六日天気は良かった。

五月三日入梅に入り始めから曇り、三日ばかり朝に雨が降った。しかし、地面は濡れなかった。十三日には一日中雨が降った。十四日より二十七日まで晴天が続いた。二十七日の午後二時頃より雨が降った。六月三日は洪水となった。田畑の決壊が諸所にあった。毎日晴れることなく、七日に晴れたが午後三時頃より大雨となった。

十三日まで降り続いた。十四日より晴天が続いた。二十二日毎日昼より雷雨が あった。地面がすこし濡れる程度の雨であった。二十九日より三日間雷なし。七月三日には雷があった。(「巣郷本」の記録の書き出しである。これまでの「巣郷本」の書き出しには見られなかったことである。「巣郷本」の記録者はこの年、これまでの人物から別人に代わったと思われる。)

②作柄は青絶つ(生育が不十分)となる。年貢割合は安永四年(1775)の元歩より三歩引きとなった。ただし、文化九年の年と同じ歩合を仰せ付けられた。(実際には元歩より二歩引きということになる)御代官 長嶺九兵衛、奥瀬軍左エ門。小田島覚右エ門は二月に下役を仰せつかり、高橋直右エ門と共に地元人として二人役職勤務となった。

四月頃までに種籾を除々に蒔いた。不熟な籾の種であったため、天気が良いのにかかわらず苗が育たず苗不足になった。人々はたいへん困った。田植えが出来なくなり放置された田もあった。田植えする五月九日大嵐となり、氷雹が降った。六月二日大雨が降り、洪水となって小橋が落ちた。七月十二日大風が吹き、稲の花が開いたのに咲き揃うことなく、吹き散らされた。

総体的に田畑の作物は吹き倒され凶作となった。(この項は「下巾本」の記録である)入石(他領地からの買入米)一駄(七斗・105㎏)三貫六百文(約90.000円)まであった。米が実らないので田高(田から取れる、刈り取り前の予想高)で、七十駄割り引くことになった。十一月二十六日より小寒になった。雪は積もるほど降らなかった。寒中より寒過ぎ、正月まで雨は一切降らなかった。

この年と去年と凶作となったため、二百六十駄の米を、「作付け米」として沢内通りが藩から拝借することになった。他に種籾も少しではあったが下された。(この項「下巾本」の記録である)

③二月に、山伏衆(修験者)に対して神社に湯花を供えること。法螺貝を吹くことが許されたという知らせがあった。二月三日には去る文化七年三月に「女性は眉毛を剃るように」という通知があったのに、それが実行されていないということがお上に達した。今年再び「眉毛を剃り払うように」という通知が出された。

そのため、「眉毛の剃り方、払い方」について高橋喜内様より始末書が出された。(何のために「女性が眉毛を剃らなければならないか」は記録にはない。考えられるのは殿様の格上げに関係があるのではないかということである。二十万石という格式に相応する身なりを領民に求めたのではないかということである。朝から晩まで忙しく農事に努める女性にとっては、煩わしく迷惑であったに違いない。)この項「白木野本」のみに記録されている。

④十一月御上様より一間半(9尺・約2.73m)以上の間口のある神社を守る者は冥加金(最初は褒美の一種であったが、献金あるいは臨時の税となった)を一歩(収入の1割)あて指し上げるよう仰せつかった。ただし、神社の別当(神社の管理、権限を行使する役目の人)は神職か山伏(修験者)である場合という通知であった。年末から屋敷役(家屋税)が一坪(6尺四方の面積・約3.306㎡)あたり一割増になった。これは今後五ヵ年間ということである。「白木野本」のみ記録。

⑤湯川山に隠し鋳銭座(銭を鋳造する工場)があることが知られ、新田の百姓が大勢押しかけ来て焼き払った。この日は五月十五日であった。(「白木野本」には「三月十五日焼き払う」とある。月日の違いがある。)

鍵沢にあった大鋳銭座には六月二十二日、山伏峠陰の岩手郡の百姓衆四百人(「白木野本」には「大勢押しかけ」と記録されている)ばかり押しかけ小屋小屋に火をかけ諸道具ひとつ残らず打ち砕いた。鋳銭のための木炭七八千貫(1貫は3.75kg・8千貫では30t)あったものを皆焼き払った。

これまで、これらの事件は「悪貨は良貨を駆逐する」ことを防ぐ、「贋金が通用しない」ことに対する一般農民の怒りの事件と解釈されてきた。しかし、この解釈に疑問の説が出てきた。つまり「贋金」は「贋金」とされるまで実は地域内外に通用されていた事実があること。その「贋金」をすぐに捨て去ることは簡単にはできるはずがない。むしろ、「贋金」でもよい粗末な出来具合の「贋金」でもいいから探し出して使おうとする一団が、夜陰にまぎれて出来損ないの廃棄した「贋金」を求め、探し廻った。

照明には「たいまつ」を使った。それが鋳銭座の小屋に燃え移り、結果として焼き払われたことになったという説である。この背景には「米」中心の経済から「貨幣」中心の経済に移った時代の混乱があるのだという。それにしては、岩手郡の四百人?の百姓衆の行動は異常である。鋳銭燃料の木炭30tを焼き払うということは、贋金を発見できなかったことに対する腹いせにしては理解しがたいことである。(この鋳銭座焼き払い事件については「下巾本」「草井沢本」には記録されていない。)

⑥七月十二日西から大風が吹いた。やがて寒波が来て凶作となった。左草の市右エ門の作付け前の甚之丞の田では刈り取った稲の小たば「一束」から一升余りの籾がとれた。吉蔵の田からは八九合の籾がとれた。上流も下流も種籾はなしとなった。(食べるのがやっとで種にする籾米はなくなった)稲作不良のため秋の米価は例年にない高さであった。(この項「巣郷本」のみ記録)

⑦八月二十九日初雪降る。十月初め雪一尺(約30cm)ばかり降ったがすぐ消えた。冬至の二三日前から雪が少しずつ降ったが、年内は雪のため道路が塞がることはなかった。また雪が降らない日もなかった。十一月二十八日寒に入った。

⑨十月より下前に隠し銭座が立った。長嶺九兵衛様、奥瀬軍左エ門様の両代官に一吹き(一度の鋳造)に十五貫文(15.000文)あて差上げ銭を鋳造した。
⑩「草井沢本」六月一日 日蝕四分欠けた。十一月十六日月帯蝕。この年田畑共に大不作。八月二十七日雹が降った。二十九日には本屋敷まで雪が降った。山が白くなるほど降った。

文化十二年 乙亥(キノトイ・・・1815年の記録)
☆鋳銭座焼き払われる ☆福万旦那の盗伐 ☆遠平・当楽欅伐られる ☆仙人陰の一揆 ☆城下盛岡で打ち壊し事件
①正月一日天気良し。二日少々雪降る。三日晴天。それからは毎日雪降る。十日昼まで晴天。昼過ぎから吹雪。十二日は大吹雪になって家からの出入りが出来なかった。寒中より凍る。寒の入り二時間ばかり雨が降ったが、その後は一滴の雨も降らなかった。正月三十日には雨が吹き荒れた。

②一月二十三日下前の鋳銭座が焼き払われた。これまでの御代官二人とも免職になった。代わりに浦田伴助様、松原勝治様が着任された。
③二月福万(ふくまん・秋田山内)の旦那(資産家)が勘十郎境の南部領の木を盗伐した。御山古人(山林の管理、監督者)半左エ門が取調べられたが、福万の旦那が一貫文(約25.000円)の酒代を差し上げ見逃しになった。盗伐された木材は旦那の名前で出荷された。(この項「巣郷本」のみに記録)

④三月十二日、月明かりがまだある早朝から稲の種蒔きが始まり、十四五日から二十四五日には沢内中の種蒔きは終了した。それから寒い風が吹き苗の生育は悪かった。田植えは下左草の長兵衛ばかり節句(五月五日端午の節句)前に植え終えた。五月六日七日には所々で田植えが始まった。四月五月は天気は良かった。時々雨が降ったが土地が濡れる程度であった。七日は入梅であった。

⑤三月下旬殿様の仰せによって杉名畑の区分に入る遠平(とうひら)当楽(あてらく)の欅の木を南畑の山子(木伐り等をする人)数人が来て伐採した。五月二十二日より寒冷の風「やませ」吹く。二十三日より二十六日まで雨降る。二十七日は晴天ではなかったが猛暑であった。二十八日より曇り、二十九日三十日と大雨降り洪水となった。

五月二十三日より曇り始め六月九日まで曇り、雨降り日が続いた。十日は晴天ではなかったが天気は良かった。この度の霖雨は当楽、遠平の欅を伐ったためだと評判になった。(元文四年・1739の大荒沢の欅盗伐で死刑になった孫作のことが思い出されたに違いない)

⑥四月二十八日より仙人陰(北上市)の百姓衆に騒立(騒乱)の催しがあった。(北上市編・「北上の歴史」によれば、「文化12年に安俵高木、鬼柳、黒沢尻、二子万丁通りに百姓一揆があったことが記されている。一揆の理由は減税である。参加人数は数千人となっている。」当時の人口から考えると大規模な一揆といえる。)「巣郷本」だけに記録されている。

⑦六月二十日過ぎ、湯川で隠し鋳銭座が見つかり、これは組織的な徒党の計画であると見なされ湯川村の万左エ門こと、松太郎は大木原・貝沢に追放になった。御山古人(山林管理監督者)の半左エ門は免職となった。代わりに大黒屋権七殿が御山古人となった。七月六日より晴天続く。

⑧八月十二三日頃(「白木野本」には「八月二日」と記録されている。)城下盛岡の小者(武士や商家の下働きの者)四百人程が相談し、米屋九軒打ち破り、米俵、雑穀入りの物まで皆々切り裂き金銭は見当たり次第つかみ投げ散らした。御目付衆(警察役の人々)が二人まで捕り押さえた。

殿様のおっしゃるには「小者共の行動は無理もないことである。米のしめ売り(買い占めて、値が高くなったときに売る)は、殊にもこの頃は一向に米が売れず、(米が高くて買えない者が多くて)貧乏なる者の行為は当然と言える」ということで、米屋の打ち壊し参加者の者共に御咎め無しのまま済んだ。

次の日、殿様は大老大萱生外衛(おおがゆとのえ)様の屋敷を工事部の大工数人に命じて散々に打ち壊した。しかし、身分はそのままに勤務させた。また佐藤靭負(ゆげう)殿の若旦那のお座敷まで打ち壊させた。すごい殿様もいたものである。この殿様は第36代利敬(としたか)である。

「南部史要」によれば「利敬公の性質は剛直廉潔にして、大小役人過失あれば面前でこれを叱責し仮借することなく、あるいは自身拳を挙げて打ち敲かれることあり、されど言を飾らず非を覆わずして謝罪すれば、たちまち心解けて後に至り差し控え、もしくは謹慎等をなすに及ばず、且つ些細の罪を取り上げざるをもって罪人も従ってすくなかった。

・・・また奢侈を忌み粗衣粗食に甘んじ障子破るれば切張り、畳破るれば紙を張らせ、大破するにあらずんば改めず、一般に対しても厳に倹約を令し、華美なる服装並びに建築は絶対に禁じた。かつて家老大萱生外衛が市内日陰門に堂々たる家屋を建設するやこれを聞いて破却の命を下し、作事向より大工人足を派し、一日の内に打ち壊したり、側用人佐藤靭負が広大なる土蔵を建設したるを聞きこれも同様に取り壊した。・・・無用の費を省き民の疾苦を救うを以って念とし、常に自ら政を視る」とある。

⑨八月六日午後八時頃、太田観音堂の大杉に落雷があって焼けた。大杉にいた立蛇というものが焼け死んだ。死に跡には三寸(10cm)周りの骨が数多く敷かれていた。
⑩十一月浦田伴助様がお役代えになり、代わりに松原勝治様が二十日ばかりでまた当所にお出でになった。①から⑩までは「巣郷本」「白木野本」には記録されているが「下巾本」「草井沢本」には記録されていない。

⑪「下巾本」の記録。作柄は中の下作なり。この年の納税割合は去年より二歩増し、安永四年(1775)の元歩より一歩引きとなる。御代官ご両人免職になる。代わりに浦田伴助、松原勝治が来た。六月には浦田伴助が免職になり、代わりに澤田佐市が着任した。六月米の値段は一升(1.5kg)につき六十二文(1.550円)。古米は一升につき七十文(1.750円)まで。七月中旬より雨降り続き、稲の見通しがつきかねているうちに八月四日、五日大霜が降った。沢に入った場所の田は種無しとなった。(実らなかった)

沢内通りの年貢米のうち二百十駄(1駄は7斗・105kg)籾殻にして四百駄仰せ付けられたが上納した。入石相場一駄(105kg)につき三貫六百文(90.000円)この年より代官は永年の勤務を仰せ付けられた。
⑫「草井沢本」5月14日月蝕。皆欠ける。十一月十六日月蝕皆欠ける。この年田畑共に不作であった。去年よりは少し良かった。この年まで三年不作である。

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