65年目の敗戦の日 古沢襄

敗戦の日がやってくる。1945年8月15日を長野県上田市郊外の小さな村で迎えた。この村に漫画家の横山隆一さん一家も疎開していた。玉音放送があるというので、母と私はその時間にラジオをつけて聞いたが、雑音が多くてよく聞き取れなかった。横山隆一さんの長女の方が、遊びにきたので、小学校にも入っていない彼女を連れて、近くの川にカジカ突きに出掛けた。8月15日の記憶はそれしか残っていない。

数日後に村は大騒ぎとなった。ソ連軍が新潟県直江津市に上陸し、千曲川を遡上してくるとデマが流れたのである。近くの倉庫に保管されている鮭や鱒の缶詰を村人が総出で運び出し各家庭に配られた。

私たち旧制中学生は連日のように校庭で敵軍を迎え撃つ軍事教練をしていた。大八車を敵戦車に見立てて、私たち少年兵は、爆薬を抱えて飛び込む・・・そんな訓練をしていた。学校の武器庫には日露戦争で使った三八銃が保管されていた。三年生はそれで武装し、二年生以下は竹槍で突っ込む。長野県下の中学では同じ風景が繰り広げられていた。

一年下に永六輔氏がいた。戦後、金沢市に講演にきた永六輔氏とホテルのバアで飲んだが、その時にお互いに上田中学に疎開していたことを偶然に知った。軍事教練の日々を回顧しながら永六輔氏は「上田中学には良い想い出が残っていない」と暗い表情でつぶやいていた。敗戦後、間もなく永六輔氏は東京の中学に戻ったという。私はそのまま上田に残り、中学4年終了で東京の中学に転校している。

8月3,4日の2日間、次女と一緒に上田に行ってきた。上田中学は上田高等学校になっている。次女と一緒に事務室を訪れ、校内を見学させてくれと頼んだ。父親が少年時代に過ごした中学を次女に見せたかった。

事務長は昭和19年の入学という私を歓迎してくれて、古い写真集を見せてくれた。私も古い記憶を辿りながら、この位置に天皇陛下の御真影が奉納されていたと昔語りをして時間が経つのも忘れた。以前は上田に行くと仲がよかった同級生が集まってくれて、寿司屋で酒を飲んだものである。今は多くが亡くなり、多くが病気をかかえている。信州大学の繊維学部の教授となった松沢君の消息を事務長に聞いてみたが、定かでなかった。昭和6年生まれだから79歳、健在を祈って学校を辞去した。

敗戦の翌年、中学の三年生になっていた私は一人で上京した。上野駅には親を失った浮浪児が寝ている。小学校の六年間を過ごした牛込区愛日小学校は爆撃で跡形もない。よく行った神楽坂は一面の焼け野原。暗澹たる気持ちに襲われて上田に戻った。敗戦からすでに65年の歳月が去っている。東京は復興し、戦前は考えもしなかった高層ビルが立ち並んでいる。だが少年の心に焼き付いている”お江戸”の風情を遺した東京はどこにもない。

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