文政十年 丁亥(ヒノトイ・・・1827年の記録)
【巣郷本の記録】
☆凶作 ☆獄門首
六月閏あり。作柄は凶作。年貢割合は文政五年(1822)より一歩引きの割合であった。この他に沢内中で百駄、約10.5tの割引があった。この割引高は一石(150㎏)の収穫に対して二升八合、4.2㎏ということになる。他領地の秋田・仙台領からの買い入れ米の値段は一升、1.5g当たり四十五文約1,125円であった。
閏の六月十六日には洪水で大変こまった。お代官は前年と同じであった。二枚で小判一枚一両(約10万円)に相当する二歩金の貨幣がきた。去年、新町高橋直右エ門の子である定之進という者と大野の吉五郎親子三人は贋金造った罪で斬罪にされ、首が獄屋の門にさらされた。
【下巾本の記録】
☆苗不足 ☆天候不順で蛙、ドジョウが死んで浮く ☆洪水 ☆殿様侍従位となる
作柄は中作であった。年貢割合は文政五年より一歩引きとされた。もっともこれは安永五年の元歩と同じである。割引米を二百十駄、約22.05tをお願いしたところ、沢内中総収穫高を平均して一石150㎏の収量に対して二升八合4.2㎏の割引となった。御代官 藤根清内、高田等であった。
種まきが終わった頃から、冷風のやませ風がしきりに吹き続け、苗不足になって困った。六月二十日より二十三日の暑さは普通ではなく、田の蛙、トジョウが死んで浮いていた。
川の魚は逆に冷水で死んだ。閏の六月十六日には大雨が降り、洪水となり方々の橋が流された。その後雨の日が続き不作となった。
四月十七日総竿改めという田畑の測量、面積ごとに品位、収穫高などを実地調査があった。鍵沢村の工事があり一石150㎏の収穫高にたいして二十二文、約550円づつの費用割り当てがあった。どのような工事であったかは「白木野本」に洪水に流出された田地の復旧、防備の工事であると記されている。
殿様の利済(トシタダ)公は侍従の位となった。「南部史要」には「侍従に任ず」と記されている。この場合の「侍従」は「天皇」を中心にした格付けを表す「位」なのか、時の将軍徳川家斉の近くに仕えることになったということなのか分からない。「位」としての侍従であると解するのが自然な解釈と思われる。
御公儀である幕府より七分引きの銀貨の使用についての通知があった。従来の価値から七分を割り引いた銀貨、品位の下がった銀貨であること。その後一朱金が出された。続いて銀の一朱金が出された。(一朱金は文政一朱金の略。江戸時代の金貨のうち、最少額で最悪質のもの。16個で小判1両に換える。一朱銀は江戸時代の銀貨のうち最少額で最小形のもの16個で金一両、形は方形。「広辞苑」)
五六年以前の二歩金は粗悪銭として通用されなかったがここに来て通用することとなった。貨幣の価値は低落し、物価高のインフレ現象が蔓延した時代であったといえる。
【白木野本の記録】
☆ 白木野山の草刈場・道 指し止めとなる ☆鍵沢村の復旧工事
閏六月二十三日に越中畑領の白木山草刈場は差し止めとなった。また、関所前の越中畑、白木野、中村の三箇所から来る道も通行止めとした。その理由について種々説明したけれども三カ村の者たちは揃って聞き入れなかった。やむを得ず関所に蔵之助が行き聞きただした。関所役人の駒ヶ嶺駒之助様が言うには、「あなた方の親父、又は親類に相談の上申し上げる」ということであった。
七月三十日に来て、八月七日に御用があるというので関所に行った所「ここの草刈場に馬が通ることはかまわない。済んだことではあるが、文政八年酉年(1825)の秋に、御番所(関所)前は夏から秋に降り続いた雨のため、牛馬が通ると道路は三尺、約一mも抜かって通ることが出来なかった。いずれの牛馬も皆裏通りばかり通ったのだ。」という。
村中の水害復旧工事も出来ず御上様に願い出たところ、草刈の村、越中畑・白木野・中村の三カ村は戸別当たり一人ずつ人足を出して工事をするようにということであった。
土留め俵は村中から出すようにということであった。白木野村からは十三人の人足が出た。三カ村の人足代はもらえなかったが、土留め俵の代金はくださった。
文政八年酉(1825)年の秋から文政九年の春まで洪水となった。鍵沢村の田地が流され、六月沢内中から人足を出して復旧工事をした。
【草井沢本の記録】なし。
《草刈場の重要性について・・・当時の農家には一軒の家に平均して二、三頭の馬が飼われていた。馬の飼料は草刈場から刈り取ってくる草が主であった。冬期間の飼料も乾草、あるいは大豆の葉、葛の葉、等準備しなければならなかった。また、馬屋に草を敷きこみ馬に踏ませ堆肥として肥料になる草は重要であった。草刈場の境争いが度々起こった理由である。》
文政十一年 戊子(ツチノエネ・・・1828年の記録)
【巣郷本の記録】
☆ 大豆・小豆不塾 ☆小松川の作兵衛酒論の上殺される
☆ 塚の野・清水ケ野に新田堰掘る ☆東本願寺の使僧来る作柄は中作、平年並みの出来であった。大豆、小豆は不塾で実にならなかった。
年貢割合は安永四年(1775)の元歩と同じであった。秋田・仙台領から買い入れた米の値段は一升、1.5㎏が五十七文、約1,425円であった。御代官 藤根清内、高田等代わり美濃部作左エ門。越中畑の関所御番人 赤沢庄作は母親、妻子を連れて赴任、長く勤務することになった。
小繋沢の徳兵衛という人は塚の野に新田のための堰を造成した。清水ケ野でも堰を堀り始めた。横手小松川の作兵衛という者は大松川の者と酒を飲んで口論し、打ち殺された。京都東本願寺の使僧が盛岡に来、横手にも来た。
【下巾本の記録】
☆年貢米の滞納者は城下より買い米して納める ☆越中畑番人三年勤務となる
作柄は中の下であった。特にも畑の粟、稗は天候に左右され、さらし枯れとなった。年貢割合は文政五年(1822)と同じ割合になった。この割合は安永四年(1775)の元歩より一歩増しである。「巣郷本」と一歩の違いがある。
年貢の納入には米がなく皆困った。他領地である秋田・仙台からの買い入れ米の値段は一駄、105㎏あたり三貫八百五十文、約96,250円から四貫文、約100,000円であった。一升1.5㎏当たりに換算すると1,375円から1,428円となる。御代官 藤根清内、高田等代わり美濃部作左エ門来る。
来春までに年貢米を滞納した者は一駄、105㎏当たり五貫六百文、約125,000円で城下盛岡で買い入れ納めた。売る米は安く、買う米は高い昔も今も農家の苦しみは続いている。越中畑の関所番人は九月より三ケ年勤務となった。
鍵沢川の決壊復旧工事の工事費は収穫高一石、150㎏あたり十七文、425円の割り当てがあった。小繋沢の塚野に新田堰堀り、清水ケ野の百姓たちは荒沢の落合から新田堰を掘り始めた。
【草井沢本の記録】なし。《「歴史年表」から・・・長崎奉行所、シーボルトの荷物から日本地図などの禁制品を発見(シーボルト事件)。シーボルト出島に幽閉。ロシア・トルコ戦争―1827まで。 》
文政十二年 己丑(ツチノトウシ・・・1829年の記録)
【巣郷本の記録】
☆大雪と寒気襲う ☆旅人病死 ☆針葉樹・立ち木用材検査 ☆出羽奥州大洪水
年貢割合は去年の割合と同じであった。十二月一日は二十四節気の一つ小寒であった。十二月七日雷が鳴り雪降り始まる。大変な寒気で限りなく寒かった。二月、下小繋の人甚之助の家に、どこから来たのか分からない者が一人で泊まり病死した。
七月代官所役人(御給人)の久保伊兵衛治様が杉・松・桧などの針葉樹(青木)を調べた。その後十月、「植立帳面」(植林記録簿)を調べ、植林を省いた者、管理不十分な者四十五人が見つかり、取調所(町宿)で調べられた。十一月二十日 洪水のため出羽(秋田・山形)奥州(福島以北の太平洋側)地方は大騒動、大被害を受けた。御代官 美濃部作左エ門、新田目作内。十月二十日 雪が降り始め大雪になり、大変困った。
【下巾本の記録】
☆ 年貢米一駄四貫五十文 ☆除雪して大根を掘る ☆越中畑番所改築
☆ 馬競り代金直納となる ☆諸木検査
作柄は中作、平年並みであった。年貢割合は昨年と同じ。安永四年(1775)の元歩より一歩増し仰せ付けられた。たいん迷惑で困った。年貢米を納められない者は一駄(7斗・105㎏)につき四貫五十文(101,250円)を納めた。
夏中、米の値段は一升(1.5㎏)五十七・八文(約1,450円)であった。御代官 美濃部作左エ門、藤根清内代わり新田目作内来る。
八月下旬より十一月まで雨降り続き、大根を掘り取らないうちに雪が降った。その雪は三尺、約一メートルも積もった。畑の除雪しながら大根掘りをした。誰もがみんな難儀苦労した。この年、馬競り(競り市)の代金は直納となった。
越中畑関所の役所が改築された。新町のお蔵の敷板が改修、改められた。六月ころ、沢内代官所の御給人(役人)たちが、松・杉等の木々を調査するため山々、村々を残らず廻り、検査した。八月になって盛岡より諸木検察のため、山林役人の多田忠右エ門様がお出でになり、老名・肝入を先立ちにして残らず調査吟味された。結果として沢内代官所管内の松・杉の植林・補植管理を百姓たちに厳しく仰せ付けられた。
【白木野本の記録】【草井沢本の記録】共になし。《「歴史年表」より・・・幕府、南鐐一朱銀を鋳造。シーボルト追放。》
文政十三年 庚寅(カノエトラ・・・1830年の記録)
【巣郷本の記録】
☆稲穂に虫害 ☆天保となる ☆久保伊平治御給人となる
年貢割合は安永四年(1775)元歩に一歩増しであった。大豆の出来は中ぐらい。小豆の出来は下の下であった。稲穂には虫が多く付き、巣郷地区は特に多かった。
他領(秋田・仙台)からの買い入れ米の値段は、一升(1.5㎏)あたり六十文(1,500円)であった。御代官は去年と同じであった。十二月年号が変わり天保となった。沢内出身の久保伊平治が御給人(役人)となった。
【下巾本の記録】
☆改元があった ☆鍵沢川の護岸工事出来る ☆高野山遍照光院の使僧来る
☆大豆小豆根雪の下になる ☆下左草柳沢に鉄山出来る
三月閏があった。改元があり年号が変わった。作柄は中の下であった。それなのに年貢割合は昨年と同じ割合を仰せ付かった。他領から買い入れた米の値段は一駄(105㎏)につき四貫五・六百文(112,500円から115,000円)であった。これは1.5キログラム(一升)あたり約1,606円から1,642円に当たる。
夏の米価は一升(1.5㎏)あたり五十二・三文(約1,325円)で、秋の米価は一升(1.5㎏)あたり四十八文(約1,200円)であった。御代官 美濃部作左エ門、新田目作内。
鍵沢川の護岸工事が出来上がる。種々な役目の人足が出た。護岸のための土手の面積二歩と八歩に杉の植林の許可証が下された。御礼銭として許可証一枚につき百五十文(約3,700円)ずつ納めた。八月高野山の遍照光院の使僧がお出でになり、郷毎にお廻りになった。九月雨降る。
十月中旬より雪となった。大豆、小豆は収穫できず根雪の下にしたままの者が多く、たいへん困った。十二月大寒の節に、風雨稲妻、雷がして二度も大荒れに荒れた。雪降り積もる。この年、下左草の内、柳沢という所で鉄山の採掘が始まった。《「歴史年表」より・・・薩摩藩、砂糖専売を強化。水戸藩主徳川斉昭、藩政改革に着手。伊勢御蔭参り大流行。フランス、七月革命。ポーランド、十一月蜂起。》