弘化四年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1848年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は下作であった。年貢割合は元歩より四歩引きであった。七月初め頃より稲穂が少し出た。その頃より雨降り続きで大飢饉の様相であったが、八月は日照り続きで霜も降らなかった。刈り取った稲一束(稲を手で刈り取り小束にしたものを10束を合わせて1束・イッソク)から一升三合、よい田では一升五合(籾)収穫できた。入石(買い入れた米)一升(1.5㎏)五十文(約1,500円)ぐらいであった。
五月初めに牛馬を他領に売り出すことが指し止めとなり、藩境に役人が出張して取り締まった。左草境口には高橋文治様、越中畑野々宿境口には加藤八兵衛様、高橋直衛様、久保弥市右エ門様の三人が代り代わりに五月はじめから十一月九日まで常詰めされた。盛岡からのお役人鈴木金兵衛様、瀧澤ひさし様の二人は沢内通りに度々廻り、その経費三百貫(約750万円)ばかり掛かった。(当時の役人の出張旅費は出張先の住民が支払った。)
八月二十八日馬競り(馬市)に野々宿村の定之助、中村の安右エ門、佐兵衛白木野の磯七、細内の利右エ門の五人は馬を密売したとして逮捕され、町宿(罪人の収容所)預かりとなった。
御用金(臨時税)五月百三十両(約1、300万円)、十一月四百五十両(約4、500万円)が沢内通りに割り当てられた。五月八月分は上納済みとなった。
十一月は四分の一を十二月までに上納した。信濃善光寺の開帳(秘仏の一般公開)があった。信州(長野県地方)に大地震があり、山々崩れ何万人死傷したか計り知れないという。
【下巾本の記録】この年から、「下巾本」の記録はなくなっている。理由は分からないが、世情は騒然不安になり、記録の余裕がなくなったためと思われる。
【白木野本の記録】お上は御用金四百五十両(約4、500万円)を仰せ付けられた。沢内中のお百姓は迷惑困窮した。
十一月頃、二戸通り野田代官所に御用金は困ると、四戸からも五戸からも百姓共が押し寄せ、「お上様が御用金を仰せ付けられたが、納めかねるので、我らは仙台藩に手間取りに行く。」と申し上げたそうである。
願事が通るならば、お上様に願い上げ、何でもかなえてもらえる筈なのに、御用金と月割りを代官所の下役様二人の内、一人に仰せ付けられても同数の二人に仰せ付けられても、願いはかなわず百姓は引き取る。
また、十二月八幡通り(現花巻市石鳥谷町)より、三代官所に願い上げたが百姓共は迷惑困窮す。(「南部史要」には「十一月閉伊郡野田通りの農民強訴を企て、宮古、大槌付近の農民を誘い遠野まで押し寄せ大騒擾を極む、これは言うまでもなく租税御用金等の賦課加重に基けるものにして、殊に天保十四年よりして軒別役なる五ヵ年の年限付け新税を賦課せらる、こは家一軒につき一貫八百文の規定にて、細民に対しては半軒分、或はその以下の分あるも、身分により二軒分五軒分十軒分を課し、富裕のものに対しては百軒分二百軒分を課す。
これ皆肝煎、老名、検断の認定によるものにて異議を許さず。而して軒別役五ヵ年上納中は他の御用金は一切命ぜざる筈なりしも、その公約を無視して一ヵ年に三度四度づつの御用金繰合金を命じ、或はまた担保利足付の才覚金を命ず、然るに期限に至るも利足を下付せず担保品をも引き渡さず。その上これ等御用金の命あるや否や数人の同心を派して厳重に督促せしむ。この同心に対しては賄い付きの上、一日二百文づつの日当を給せざるべからずして、右諸入費は村内の分担となりて少なからざる額に達す。従前野田通りには納税督促の同心に対して賄い、日当を給するの例なかりしに、何時よりともなく他地方同様の振り合いとなるため、細民は特に苦痛を感ぜり・・・云々」とある。「日本歴史大辞典」には「弘化年中南部藩百姓一揆表」の中に「弘化四年一揆の参加者は一万六千余人」とある。)
この年以降の「下巾本」の年代記録はない。 《「歴史年表」より・・・幕府、江戸湾入り口の相模国千駄崎、猿島、安房国大房崎に砲台築造を決定。リベリア共和国独立。「盛岡郷土略年表」より・・・盛岡菜園場に御殿・茶室、蓬莱の御馬場(富士の裾野をかたどった馬場か)を造営完成する。》
弘化五年 戊申(ツチノエサル・・・1848年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作。年貢割合は元歩合であった。入石(買い入れ米)は一升(1.5㎏)四十文(約千円)であった。改元があって「嘉永元年」となる。
【盛岡郷土略年表より・・・「六月十三日、藩主利済公退院、長子利義公世襲す。」とある。このことは「南部藩落日の譜―太田俊穂著―新人物往来社―」には、「弘化四年(1847)の三陸沿岸に始まる百姓大一揆が、幕府の知るところとなり、老中安部伊勢守の裁断によって、利済は退院を余儀なくされ、いやいやながら藩主の座を世子利義に譲り渡すことになった。ところが、どういうわけか、「悪政」の主役である石原汀、田鎖左膳、
川島杢左エ門らは無傷のまま温存された。これでは意味がない。利済は一旦隠居して城外の清水御殿に移ったが、「三奸」の画策によって院政が布かれることとなった。原敬の祖父直紀らがそれを諫止しようとしたが逆に閉門になるなど「三奸」の権力はいささかの衰えを見せず「悪政の季節」は止まることころをしらず長引いた。
利義は何も出来なかった。正義派家臣団は絶望感におそわれた。そうした折も折、「利義公御乱心」の噂が江戸と国表に流れた。そしてまもなく退院の届けが幕府にだされた。この乱心は今も謎とされているが、これによって、利済と「三奸」の思いどおり弟の鉄五郎に相続され、三十九代利剛(トシヒサ)となる。利済は誰はばかることなく゛院政゛を強化した。」とある。】
【「歴史年表」より・・・アメリカ捕鯨船、蝦夷地サインリ島に漂着。幕府これを長崎に送る。この年オランダ通詞本木昌造、オランダから鉛活字印刷機を購入。佐久間象山、初めて洋式野戦砲を鋳造。パリで二月革命。マルクス「共産党宣言」刊行。】
嘉永二年 己酉(ツチノトトリ・・・1849年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は上作であった。年貢割合は元歩より一歩ましであった。入石(買い入れた米)一升(1.5㎏)の値段は三十文(約750円)位であった。四月閏があった。
『ここで、年貢割合の元歩について記す。安永四年(1775)「下巾本」に「是より熟年(平年作)にて引きならす(平均して)歩(年貢割合)を仰せつけらる。但し、凶作の場合は実地検査して決める。是より去る未の年の歩成りで仰せつけられ上納する」とある。この年から一定の年貢割合が確定し「元歩」となっている。どのような割合かといえば「草井澤本」の記録に「歩付壱つ五歩利助=年貢割合15%利助、壱つ四歩(14%)長八」等記録されていることから上田、中田、下田の耕作地の条件によって年貢割合は決められていたと考えられる。出来高の一割から一割五歩が平均の元歩であったと思われる。「元歩に六歩増し」となれば出来高の二割以上が年貢となったことになる。逆に「元歩より二歩引き」となれば出来高の一割を割ることもあったことになる。』
【「岩手県史―第12巻(年表)」から・・・7月盛岡南部藩長良通長岡村に入会草刈紛争起こる。この年南部藩主南部信候病気を理由に隠居家職を利剛に譲る。同信候の復職を願えるもの二百余人罰せられ、明義堂の東條一堂派弾圧せられ、又奥医師江畑春庵獄死する。花輪伊豆政寿、三戸駿河済彰、楢山五右衛門盛岡藩家老となる。盛岡南部領洪水あり。
十二月仙台領高五十四万七百八十石余水損するを幕府に告達する。仙台領通用の鉄方銭廃止するため紙幣を造り換収む。その業ならず以後五カ年間兌換するを幕府に請いて許さる。☆閏四月イギリス測量船マリーナー号浦賀に来り江戸湾を測量する。五月幕府外国船打払令復活の可否を有司に諮問する。七月楢林宗建オランダ牛痘菌により種痘に成功する。八月鍋島藩内にオランダ法種痘を実施する。十二月幕府諸大名に沿海警備を厳にすべきを命ずる。】
嘉永三年 庚戌(カノエイヌ・・・1850年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は下作。入石(買い入れ米)の値段一升(1.5㎏)六十文(約1,500円)ぐらい。大豆一升は五十文(約1,250円)小豆一升は五十五文(約1,375円)ぐらいであった。
買地侍(土地を買った侍か)太田六之助の子石五郎、新町の市太郎、平右エ門、大野の重右エ門の子三之助の四人は荒れ地を開墾し献金した。小田嶋嘉左エ門は百石の禄(俸給)となった。
【「岩手県史―第12巻(年表)」から・・・二月盛岡藩主南部利剛 水戸斉昭の女を娶ることを決める。三月利済四男栄千代二千石を給せられる。四月和賀、稗貫地方に新田検地あり。六月八戸藩主南部信順(島津重豪五男)忠代信真の末女鶴姫を娶る。八月旧南部藩主利済長女成姫にさらに五百石を給する。九月四日承慶橋中嶋より東七間西残らず洪水にて半流、直に繕いを命ず。この年盛岡城下全町に蔵米三百駄を移し凶荒に備へしめる。
不作南部領はもとより奥羽諸国飢饉となる。高野長英自刃する。仙台領高五十九万石余水損するを幕府に告達する。☆10月佐賀藩反射炉を築造する。幕府徳川慶篤および勘定奉行石川政平に軍艦製造を命ずる。この月フランス船津軽沿岸に周来する。この月朝廷外海防御の勅諭を幕府に下す。十二月幕府相模沿岸の砲台を移築改造し戦船を製造する。】
嘉永四年 辛亥(カノトイ・・・1851年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作であった。《年代記の記録は、なぜか安政六年(1859)まで、1行で終わっている。》
【「岩手県史―第12巻(年表)」から・・・六月アメリカ軍艦浦賀に来り、八戸藩江戸邸のもの幕府により警備隊の組織を命ぜられる。
この年盛岡藩和賀、稗貫、志和の知行新田検地あり。大槌、宮古地方に鰯の大群押し寄せ漁獲大いに上がる。藩吏これを聞き漁獲高を報告せしめ、大槌通宮古通に各三万六千俵合わせて七万二千俵の締滓買上を命ずる。然し買収価格実値に副わず、格外の廉価なるため漁民漁獲を中止する。那珂悟楼東北遍歴の途に上る。☆八月島津斎彬精錬所を鹿児島に設置する。】
嘉永五年 壬子(ミズノエネ・・・1852年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作であった。二月閏あり。
【「岩手県史―第12巻(年表)」から・・・八月和賀郡地方打直し検地あり。この年盛岡藩寺社町奉行の兼務を解き町奉行・寺社奉行とする。吉田松陰盛岡に来遊する。花輪徳之助花巻城代となる。仙台藩・一月養賢堂学頭大槻習斎番頭格に進む。三月吉田松陰仙台に来る。
☆二月外国船対馬および五島沖に出没し三月におよぶ。四月相模国鳶巣・鳥ケ崎・亀ケ崎の三砲台できる。五月幕府彦根藩に西浦賀千代崎砲台の管理を命ずる。九月明治天皇誕生する。】
嘉永六年 癸丑(ミズノトウシ・・・1853年の記録)
【巣郷本の記録】
大旱魃にて八月末には、黒沢川の用水にたよる水田は水不足のため困窮した。
【「岩手県史―第12巻(年表)」から・・・正月旧盛岡南部藩主利済三男釿次郎四男栄千代に三千四十石を加増し五千四十石とする。四月承慶橋中嶋より片側欠落せる。
●五月末盛岡南部領野田通の農民、重なる藩の悪政を怨み一揆を起こす。先ず野田代官を吊し上げ、富豪から金を借り或いは強奪し二万余人を誘い、宮古代官所を打ち壊し山田へ向かう。
●六月三日頃大槌に入り、三万から四万人の勢いとなり釜石に向かい、大槌代官及び侍分の者を追散し、平田より伊達領に入る。
●翌七日悪政五十二ケ条を連ね伊達藩役人に訴え出る。定税の前納、産業税の増額、重要産業の専売制、役人の増加等に反対し「三閉伊を公儀の御領にし、もし成りかねるなら仙台領にして貰いたい」という主旨であった。
●この一揆は、この後百五十日を要し十月に至り解決する。この年、遠野に郷学校信成堂創設される。盛岡藩石原一派失脚、藩政改革せられる。南部弥六郎義普、南部吉兵衛済愛、毛馬内蔵人真興、南部主計清旭、東中務政図、毛馬内左門真恭、原直紀芳隆盛岡藩家老となる。凶作米作損毛六万九千石となる。
☆仙台藩・十月大槻盤渓親露説を幕府に建議する。この年仙台領高六十八万七千三百石余旱損するを幕府へ告達する。
☆仙台藩南部領百姓越訴一揆の処置に当たり、その状況を幕府告達する。
☆六月ペリー軍艦四艘を率いて浦賀に来り国書を呈する。
☆七月幕府諸大名にアメリカ国書を示し意見を徴する。この月ロシア使節プチァーチン軍艦四艘を率いて長崎に来航、長崎奉行ロシアの国書を受け取る。】