「沢内年代記」を読み解く(三十一)  高橋繁

安政元年 甲寅(キノエトラ・・・1854年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は上作であった。木の実(栗、栃、ぶなのみ、ドングリ、ヤマブドウ等)が多かった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」から・・・二月旧南部藩主南部利済、江戸参府を命じられ、幕府より叱責を受け麻布下屋敷に謹慎となる。盛岡城新御殿を破却志和の承慶橋を取払い津志田の遊郭を禁止する。又新番所同心奥女中など整理し、倹約令を下す。蝦夷盛岡藩主南部利剛諸士の生活困窮を救うためその貸借を年賦とする。盛岡藩家老横沢兵庫休役蟄居を命じられる。三月下旬盛岡松前警備強化が指令される。毛馬内大隈次賢盛岡藩家老となる。

五月南部領洪水あり。この年、下閉伊郡田老鉱山高島嘉右エ門により試掘される。八戸藩大砲術を挙行し更に幕府に練兵願いを出し領内要所に台場を増築する。

☆この頃仙台藩水沢留守邦英(伊達宗衛の子)家臣に砲術を研究せしめ剣客を聘し、立生館内に公武堂を設け、武術砲術を教練せしめる。
☆この年、高平小五郎一関に生まれる。

◎三月ぺりーと和親条約に調印し下田・函館の二港を開港する。
◎五月幕府アメリカと和親条約付録に調印する。
◎六月函館奉行再置される。
◎七月幕府日章旗を日本国惣船印と制定する。

◎八月幕府イギリスと和親条約に調印する。
◎九月幕府武家諸法度を改定する。
◎十二月幕府日露和親条約に調印下田・箱館・長崎の三港を開き択捉・得撫両島の間を国境と定め樺太を両国雑居地とする。】

安政二年 乙卯(キノトウ・・・1855年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作であった。山ネズミが多くこれまで経験したことのない増え方であった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」】から・・・四月南部利済卒する(五十九歳)。盛岡藩主南部利剛領内を巡見する。七月盛岡藩に対して幕府より蝦夷地警備費として五千両の貸し下げあり。新渡戸伝(新渡戸稲造の祖父)北郡三本木平の開墾を願い出る。

十月江戸大地震あり、桜田の南部藩邸倒壊焼失し、在府中の利剛梁下となり負傷する。南部藩邸(上屋敷)焼失につき諸士に分限金を課す。この年盛岡藩東蝦夷地の分割警備(エサン岬よりホロベツまで)を命ぜられ陣地構築に着手し警備兵を配置する。利済三男釿次郎四男栄千代地方千石御金千石の二千石となり、長女成姫も一カ年二百両と改まる。

南部藩士大島高任水戸藩の依頼で那珂湊に反射炉を造る。花輪徳之助晏家、盛岡藩家老となる。八戸藩野辺地港より大豆を屡々泉州摂州へ送る。新渡戸伝三本木新田御用係とにる。

☆この年大槻習斎仙台藩にて大砲及び軍艦製造用係に命ぜられ杉山台にて鋳造を開始する。
☆異国船、閑上浜に来たり、ついで石巻に着岸する。
◎三月幕府蝦夷地の警備を仙台・久保田・弘前・盛岡・松前各藩に命令する。
◎七月幕府洋式調練を奨励する。
◎十月幕府フランスと和親条約を締結する。

安政三年 丙辰(ヒノエタツ・・・1856年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作であった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」】より。三月八戸藩禁裸御所御普請手伝いとして人員と御用金三千三百二十七両を命じられる。四月稗貫郡北湯口の知行新田を検地する。この年、盛岡藩主利剛四月より五月まで領内北部の海岸を巡視し沿岸防備の強化を謀る。強震津波来たり宮古地方家屋流失倒壊百余戸に達する。

江戸参覲は在府四ヶ月と短縮される。大島高任貫洞瀬左衛門とともに洋式高炉建設を願出る。原敬岩手郡本宮村に生まれる。
☆三月留守宗衡退隠嗣子邦命襲封する。
☆十月小梁川中務(邦盛)奉行職を命じられる。
◎四月幕府砲術調練所を江戸深川越中島に設置する。
◎七月アメリカ領事ハリス着任する。
◎八月イギリス水師提督シーモア軍艦三艘を率いて長崎に入港し条約改正を請求する。

安政四年 丁巳(ヒノトミ・・・1857年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は下作であった。年貢割合は三歩引きであった。五月閏あり。五月十五日が五月節句となった。五日には雪が五寸(役16㎝)ばかり積もった。(陽暦では四月下旬であるから、西和賀地方では降雪の年もあったと思われる。しかし、この時期五寸の積雪は異常に多い。)

【「岩手県史―第12巻(年表)」】より。三月大島高任洋式高炉を建設し十二月出銑に成功する。(現釜石市橋野に建設)この年稗貫地方打直し検地あり。利剛水戸斎照の女を娶る。三閉伊通農民一揆指導者三浦命助獄死する。山崎鰓山「鰓山詩稿」を上梓する。八戸領惣馬改めあり一万七百四頭を数える。
☆二月一関藩主田村邦行卒去し(三十八歳)四月嫡子通顕家督となる。
☆十一月仙台藩軍艦開成丸を建造する。
☆この年、仙台領高七十万七千三百八十石余損耗するを幕府に告達する。
◎十月将軍ハリスを引見ハリス米大統領の親書を提出する。
◎十一月幕府アメリカの国書及びハリスの呈書を諸大名に示す。
◎十二月幕府アメリカに対し江戸・大坂・兵庫新潟を追加開港通商条約を締結すべき旨を朝廷に報告する。

安政五年 戊午(ツチノエウマ・・・1858年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は上作であった。年貢割合は一歩増しであった。(元の割合の一歩増し。)

【「岩手県史―第12巻(年表)」】より。この年和賀地方打直検地あり。上閉伊郡釜石浦より水戸湊に向け鉄材二千七百貫を積み出す。(約10,8トン)田名部(現青森県下北)にある盛岡藩有船七艘、この他九百石積以上千三百石積みの民間所有船あり。安宅正治勝全盛岡藩家老となる。大島高任の建議により大橋鉄山を藩直営とする。八戸藩の三本木新田開発進む。

◎三月朝廷通商条約調印の不可を指令する。
◎六月十九日幕府ハリスとの間に日米通商条約の調印をする。
◎六月日蘭条約・日露条約・日英条約調印される。
◎九月日仏条約調印する。

安政六年 己未(ツチノトヒツジ・・・1859年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作であった。年貢割合は元歩の二歩引きであった。米一升(1.5㎏)の値段は六十五文(約1、625円)であった。大豆小豆も一升の値段は米の値段と同じであった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」】より。十月南部藩東蝦夷地の警備区域中に領地を給せられる。(絵鞆・幌別・礼文華)十二月盛岡藩江戸城普請用として領内生産岩鉄一万五千貫を上納する。南部信誉(麹町候信隣の跡を継ぐ)を城主格に推挙し幕府の許可を得て北郡に七戸藩を創る。この年平山郡司良恭、戸来宦左衛門秀包盛岡藩家老となる。この年盛岡藩主利剛領内巡見の途次三本木新田開発をみる。

☆四月岩谷堂大火三百余軒焼失する。
☆この年仙台領高七十万千三百七十石余の損耗を幕府に告達する。
◎五月幕府神奈川・長崎・箱館三港を開き露・英・仏蘭・米五カ国に貿易を許可する。
◎六月日英通商条約締結する。
◎七月日露・日仏本条約締結される。

万延元年 庚申(カノエサル・・・1860年の記録)
【巣郷本の記録】
七月二十五日ヤマセの大風、大雨が降り作物は大被害を受けた。八月十三日には南から大風、大雨降りとなり、家が吹き潰され大騒動となった。筏村(現秋田県横手市)の仙人堂(神社)の杉の木、周囲が五尋(1尋は五尺1、515㍍から六尺1、818㍍といわれるから、10㍍)の大木が倒されお堂は微塵に破壊された。(台風、それも竜巻を伴うような強風、豪雨であったと思われる。)それに対して和賀仙人峠の杉の大木も神社も後ろに飛び退いたのか少しも被害がなかった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」より】この年和賀郡地方新田検地あり。那珂悟郎藩校明義堂の教授となる。南部済揖、野田親董盛岡藩家老となる。花巻の私設文武学館藩に献納され撥奮場と称される。新渡戸伝、嫡子十次郎等北郡三本木開発の計画を発表する。開発せんとする場所南北二里、東西十里に達する。

☆この年仙台藩銭四文銭を石巻にて鋳造する。
◎一月条約批准のため新見正興一行品川より米艦により渡米、咸臨丸これに従う。
◎三月桜田門外の変あり。
◎閏三月幕府神奈川開港場の貿易を定める。
◎十一月家茂皇妹和宮を迎える事を公布する。

万延二年 辛酉(カノトトリ・・・1861年の記録)
【巣郷本の記録】
田畑の作柄は中作であった。当年内に改元があって文久元年となった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」より】この年大島高任、八角宗律の主唱により西洋新学・砲術学及び医学種痘の研究学堂として同志二十二名連名にて新校の開設が建白される。(日進堂建設の建白)八戸藩主南部信順侍従に任ぜられる。稗貫郡志和郡新田検地あり。
◎三月将軍仏・蘭・米・英・露五カ国に両港両都の開市延期を要請する。

文久二年 壬戌(ミズノエイヌ・・・1862年の記録)
【巣郷本の記録】
戌年て゛作柄は中作であった。

【「岩手県史―第12巻(年表)」より】四月八戸領三本木に相対市立つ。この年日進堂盛岡城下中野村に開設される。盛岡藩京都の二条右大臣を通じて内勅があり上洛して京都守衛に任ずべく指令される。花輪正晏、三戸大五郎盛岡藩家老となる。稗貫地方知行地新田検地あり。南部領麻疹流行死者多し。

☆八月二十日江刺岩谷堂主伊達義隆卒し(五十一歳)嗣子なく、伊達安房宗恒の三男邦規を嗣とする。
☆この年大槻清栄養賢堂学頭を命ぜられる。
◎四月毛利慶親・長井雅楽をして公武の調和を計らせる。
◎七月幕府慶喜を将軍後見職に慶永を政事総裁職に任命する。
◎十一月幕府攘夷の奉勅を決定する。
◎十二月高杉晋作ら英国公使館に放火する。

文久三年 癸亥(ミズノトイ・・・1863年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作であった。四月二十日に田植えをはじめたけれども大日照りで田は干上がり一、二枚の田圃に植えては止めざるを得なかった。水涸れのため十日ばかり田植えを休んだ。雨が降らず、沼に行き、川に行っては雨乞いをした。村中が大騒ぎとなった。

ようやく三十日ぶりに雨が降った。苗は二尺ばかりに伸びた。(2尺は約60㎝。普通田植えは苗が15㎝から20㎝伸びたころに行う)再び田掻き(田を田植えができるように耕す)をして植えた。それであったのに中作となった。(田植えか遅くなり、村人は不安でいっぱいであったが、平年並みの収穫にほっとした気持ちが感じとれる。)『注・現在西和賀町沢内字弁天七内の山神神社にある石の「草木供養経」の塔には「文久三年」の奉納年が刻まれている。』

【「岩手県史―第12巻(年表)」より】二月盛岡藩主の義弟美作守信民代理として京都守護のため上京する。四月勅命により諸候に交代にて京都守護が命ぜられ、南部藩はこの年十月より十二月まで勤番となる。江戸参覲と同時なるをもって江戸には翌年正月より三月までとし幕府の許可を受ける。

五月美作守信民暇となり京都より江戸に帰る。六月盛岡藩主南部利剛幕名により出府用務終わると共に十一月上洛する。十二月南部利剛領内海岸防備忽せにすべからずとして京都より帰国する。この年志和郡打直検地あり。嘉永年中開設の下小路文学堂明義堂文学館に合併される。

◎一月徳川慶喜入京する。
◎三月天皇賀茂社に行幸攘夷を祈願する。
◎四月幕府攘夷期限を五月一日とする旨朝廷に返答する。
◎五月長州藩米・仏・蘭の艦船を砲撃し、六月その反撃を受ける。
◎七月薩摩・英国戦争起きる。

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