岸内閣の退陣以来、一つの内閣の終焉を数多く見てきたから、菅内閣の末路については、さほど関心を持たない。政権が末路を迎えると側近といわれる人たちは新聞を隠すようになる。忙しい総理のために・・と口実をもうけて差し障りのない切り抜きを作って総理室に届けるのが多くのパターン。
権力者というのは孤独なものである。政権の発足当時には千客万来の様だったのが、総理室に訪れる顔ぶれも限られる。今の民主党内の関心事は、”ポスト菅”は岡田か前原か、あるいは野田かということであろう。誰がなっても短命内閣の気がする。
そんなことを、あれこれ考えても仕方ない。
というわけで、このところ堀江朋子氏の「三井財閥とその時代」を読む時間が多くなった。700ページの大作なので、著者には悪いが疲れる。そこへ亡くなった漫画家・杉浦幸雄さんの長女・窪田菊江さんから「杉浦幸雄 生誕100年」の”ゆきお絵”展の案内状を頂戴した。菊江さんが小学校にあがる前から知っているので、3月1日から世田谷美術館で開かれる”ゆきお絵”展に行く算段をしている。
娘が父親の仕事を伝える所作は美しいと思う。堀江さんも父・上野壮夫のことを「風の詩人 父上野壮夫とその時代」の著書で残している。上野壮夫氏は昭和5年に小坂多喜子さんと結婚した夫婦作家。小坂多喜子さんには「わたしの神戸 わたしの青春」(昭和61年)の著書がある。
昭和十一年十月二十五日夜、東京・新宿のレストランで徳田秋声研究会を開いていた人民文庫の作家たちがサーベルを帯びた警官隊と特高警察に踏み込まれ、うむを言わさず一網打尽に手錠をかけて淀橋署に連行された事件があった。無届集会が留置の理由である。
連行されたのは、高見順、新田潤、田村泰次郎、立野信之、田宮虎彦、本庄睦男、那珂孝平、古沢元、上野壮夫、小坂たき子、湯浅克衞、堀田昇一、神山健男、伴野英夫、菊地克己、下村恭介の十六人。会合に遅れた井上友一郎は危うく難を逃れた。
ここに出てくる小坂たき子は小坂多喜子さんのペンネーム。昭和15年誕生の堀江朋子さんは、まだ生まれていない。その小坂多喜子さんが次の一文を遺している。
<<上高田の古沢元の家には島崎藤村の息子の翁助や杉浦幸雄、清水崑らの漫画家たちが出入りしていた。二・二六事件のときは夫の上野壮夫と一緒に古沢元夫婦のところに居て、四人はラジオで聞く皇居を取り巻く不穏な空気を想像し、顔を見合わせていたことが、思い出される。やがてじっとしていられないらしい二人の男どもは、交通が途絶えて、しんとした雪の中を、都の中心をめざして出ていった。>>
左様、昭和11年は帝都を震撼させた激動の一年であった。1936年・・あれから75年の歳月が去った。この年の夏、一人の無名のカメラマンが長編「井原西鶴」を執筆していた武田麟太郎のところに現れた。机に向かっている麟太郎のポートレートをアップで撮影しているが、写真の裏に「1936・7・6 日本工房 土門」とある。若き日の土門拳の最古の作品として東北・酒田の土門拳記念館に納められてある。
間もなく2月26日が来る。
30年昔のことになったが、沖縄を訪れて最初に行ったのは摩文仁洞窟であった。この洞窟で昭和20年6月23日、牛島軍司令官らとともに長勇参謀長(ちょう・いさむ 陸軍中将)が割腹自決を遂げている。長勇氏については語ることが、あまりにも多い。
福岡県出身の長勇氏の墓は福岡空港にほど近い粕屋町の県道21号線沿いにある。任地の博多に着いてまずこの墓を訪れて香華を手向けた。
A級戦犯として終身禁固刑の判決が下された橋本欣五郎氏は昭和10年に「橋本大佐の手記」を残している。手記の書写は300字詰めの洋紙にペン書きで110枚のものだが、カーボン紙で四部を残して、刎頸の友だった長勇氏(当時は陸軍少佐)らに秘かに託している。
橋本手記は陸軍の桜会の結成、三月事件、満州事変、十月事件について詳しく記述しているが、関係者によって焼却されて第一級の資料は敗戦の渦中にあって消えたと考えられていた。しかし一部だけが残されていた。
そこに「予は長勇ら真実の同志と謀り、桜会は50数人の会員を得たり、長勇、小原重孝(陸軍大尉 第十四師団参謀)は実行力の双腕なり」とある。手記を脱稿した翌年の昭和11年2月26日に二・二六事件が発生した。
三月事件は昭和6年3月20日に決起部隊が議会を包囲し、浜口内閣の退陣を求めて宇垣一成陸相を首班とする軍部革新政権を樹立するクーデター計画。五年後の二・二六事件の下敷きが三月事件だといわれている。
しかしクーデター計画は桜会内部から崩れていった。この経緯については長勇手記が詳しい。
<<計画遂行のために金龍亭その他の料亭で連夜の如く会合が行われ、美技を侍らせて盛宴がつづけられた。さながら明治維新の志士が京都の鴨川河畔に流連荒亡せるに似ていた。
桜会上級幹部のこの待合料亭における状態は、次第に純真なる尉官階級の青年将校の不満を買い始めた。皇道派の将校は西田税の指導に従っていたが、計画の中途から態度を左右にして、逐次、脱退せんとする気勢が現れてきた。
佐官階級の中にも、事があまりにも重大なのに驚いて躊躇逡巡するものが出てきた。さすがに革命家をもって任ずる橋本氏も、とかく決心が鈍りがちだった。
しかし私は断固として橋本氏以下の同志を叱咤激励しながら、如何に同志が少数となるも、計画は予定通りに遂行するよう橋本氏に主張しつづけた。
事件は10月18日頃には遂行する(十月事件)こととなったが、決行期の切迫とともに、皇道派はついに全部脱落した。佐官階級とくに憲兵科の将校もほとんど袂を分かった。>>
結局は桜会の内部告発によって十月事件のクーデター計画が不発に終わったことになる。橋本、長らは東京憲兵隊に逮捕されている。橋本は姫路の野砲兵第一〇連隊、長は北京に飛ばされ、荒木陸相から①三月事件、十月事件の口外禁止②公開の席での政治所見の禁止③青年将校に政治向きの話の禁止④民間政客との往来禁止・・を申し渡された。
その後の長勇氏は支那派遣軍参謀として各地に転戦、東条首相の逆鱗に触れて、懲罰的人事で幻のサイパン逆上陸作戦の指揮官に人選されたこともあるが、沖縄守備の第三二軍参謀長となって死地に赴いた。沖縄戦では日本軍を後退させず首里決戦の積極攻勢を唱えたという。結局は持久防御の作戦を第三二軍がとったので、沖縄県民を巻き込んだ悲劇を生んでいる。