大型連休に入る。もっとも海外はゴーデンウイークではない筈だから、海外ニュースはいつも通り飛び込んでくる。国内の政局の動きは小休止となるのではないか。私にとっては、もっけの幸。日頃、書きかけだった歴史と神話の記事をボチボチ完成させようと思っている。
書きたいテーマは山ほどあるが、保存してある資料を探すのが一仕事。しかし古代史の世界は資料が少なく、その代わりに諸説が一杯ある。学説よりも民間というか在野の研究の方が多い。それだけに私のような素人でも入りやすく、推理小説を読むような楽しさがある。
博多には三年間住んだので、九州各地めぐりをしたのだが、対馬には行きそびれた。対馬に興味があったのは満州に興った「女真族」の足跡が対馬にあると聞いたからである。これが事実とすれば騎馬民族の渡来説の有力な傍証になると思った。
もうひとつは、かつて対馬国を支配した阿比留(あびる)氏のことを調べてみたかった。いまでも対馬で阿比留姓は最も多い姓なのだが、全国的にいえば珍しい姓である。産経新聞の阿比留瑠比氏の姓は、新聞界広しといえども彼一人だけではないか。
阿比留氏の出自は関東の上総国畔蒜郡(現在の千葉県袖ヶ浦市付近)といわれる。つまりは東国から派遣された「防人」の末裔が土着して対馬国の支配圏を一時、握ったことになる。
いずれも古代史の世界のことなのだが、私のような歴史物好きにはロマンをかき立てられる。しかし、この十数年、もっぱら東北の歴史・・・北の王者だった安倍一族の安倍宗任の末裔が九州・松浦(まつら)で一大勢力となって元寇に際しては水軍として活躍した事績に追われた。対馬も松浦も長崎県。
それはさて置き、騎馬民族の渡来説は戦後日本の歴史学徒に衝撃を与えた。昭和23年、敗戦から3年しか経っていない時に江上波夫教授が「騎馬民族征服説」の仮説を唱えた。日本史学会はほぼ黙殺したのが、ジャーナリズムでは大きな話題となった。
戦前の皇国史観を引きずっていた頃だから、日本史学会が戸惑ったのは無理はない。おまけに江上教授は戦前からの西アジア考古学の専門家だから、日本史学会としては専門領域に土足で踏み込んできたという思いがあったのだろう。
しかも日本史学会は新たに台頭した唯物史観の歴史学者から、古代史の原点といわれた「古事記」や「日本書紀」を皇国史観の残滓として否定され防戦に追われていた。古代の同時代史料として「魏志倭人伝」がもて囃された時代である。
大学で東洋史に半分足をかけた専攻科目を選んだ私は、当然のことながら江上説に心を惹かれた。それは今でも変わらない。朝鮮古代史や北西アジアの古代トルコ民族の興亡史に関心を持ち続けるのも、その延長線にある。
対馬と女真族のかかわりが史実として残っているのは、寛仁三年(1019)の「刀伊の入寇」。入寇した女真族の海賊船団は壱岐・対馬を襲い、九州の筑前地方にまで猛威を振るっている。
事件の概要は『小右記』や『朝野群載』に詳しいが、女真族の海賊船団は50隻、約3000人。殺害された島民385,拉致された者1289、牛馬380匹。だが、海賊だから対馬に定住したわけではない。この時はたまたま風波が厳しく女真族が博多付近にいたところを、九州の豪族や防人が襲撃して、女真族の船団は逃げ去った。
女真族についてはブログに何度か書いている。菅首相が国会で「「清(王朝)のことを蒙古族と申し上げましたが、満州族でした。訂正します」とやらかして失笑を買った満州族が女真族。
女真族の祖地は南北1500キロにおよぶ大興安嶺(こうあんれい)の東麓だといわれている。古代から言語的にツングース系に属する狩猟・牧畜を生業とする民族で、中国の史書では粛慎(しゅくしん)、ユウ婁(ゆうろう)、勿吉(ぶつきち)、靺鞨(まっかつ)などと呼ばれる諸族が女真族として活躍したと伝えている。
女真族はまぎれもなく騎馬民族なのだが、一世紀の494年に扶余国という統一国家を作っている。いまでも中国の吉林省に扶余県、韓国の忠清南道に扶余郡の名が残っている。この扶余国から分国して出来たのが高句麗国。さらに高句麗から分国して出来たのが、日本にも馴染みが深い百済国である。この過程で 渤海国や新羅国も生まれたが、大筋でいえば扶余→高句麗→百済の騎馬民族とみることが出来る。ただし百済は高句麗の滅亡前に滅びている。
対馬に女真族が現れたのが史実としても、この女真族は海賊なのだから、騎馬民族の渡来とはいえない。もし女真族が来たとしても四世紀に大和朝廷が成立した頃なのだが、史実も史料も見つからない。だが、騎馬民族の特徴である女帝の制度、末子相続の制度は日本にもある。
さて1019年の「刀伊の入寇」で北九州で活躍した防人(さきもり)なのだが、663年に百済支援のために朝鮮半島に出兵した倭軍が白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのを怖れて、九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵制である。
歴史年表に①663年に西国に防人を置く②792年に軍団を廃して健児(こんでい)の制が成立③795年に東国の防人をやめる④843年に対馬の防人を復す・・・となっている。
防人は遠江以東の東国の軍団から選抜され、任期三年で九州沿岸や対馬などに配置されたが、食料・武器は自弁で士気は低かったと考えられている。平安時代に入って桓武天皇の792年に軍団制度に代わって健児の制が成立したが、これに先だって757年以降は東国だけでなく、九州からも防人を徴兵することに改められていた。
実際に防人が外国の侵攻勢力と戦ったのは、刀伊の入寇の一度だけだった。阿比留氏が対馬国に渡ったのは弘仁四年(813)、対馬国の在庁官人となって勢威をふるった。女真族の刀伊の入寇の際して、刀伊の将・龍羽を討ち果たし、元久年間(1204年~1205年)には阿比留秋依が朝廷より従五位下の官職を下賜されたとの記録がある。
姓氏家系大辞典には「この氏の祖・比伊国信は蘇我宿禰の末裔にして、上総国畔蒜郡の人なりしが、宿禰姓を称し、在廳官なるをみて対馬国造の後たるなり」とある。
しかし対馬国で勢威をふるった阿比留氏だったが、1246年に阿比留親元が当時国交がなかった高麗と交易していることを咎められ、太宰府の在庁官人宗重尚により征討されている。宗氏家譜に「寛文4年(1246)、阿比留家を討ち取りて対馬国を領す」とある。
■蘇我石川宿禰(そがの いしかわの すくね)は、蘇我石川(そがの いしかわ)とも呼ばれる日本神話の人物で、蘇我氏の祖とされる。河内国石川郡で生まれた。武内宿禰の子であり、蘇我満智の父である。名前から見て、蘇我倉山田石川麻呂もしくはその子孫が創作した架空の人物であるとする説もある。(ウイキ)