「沢内年代記」を読み解く(三十六 完)  高橋繁

明治十六年 壬未(ミズノエヒツジ・・・1883年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作なり。閏あり。(「下幅本」「白木野本」「草井沢本」ともに記録なし)

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕帝国教育会設立・徴兵令改正公布し現役予備役、後備役制定める・医師開業試験規則交付
〔沢内通り〕・川舟郵便局(局長石井善次郎)・川尻局(局長川村弥五郎)・杉・・・名畑局(局長高橋太平次)開局。

・西和賀人口六三八九人、就学児童二九八(内女一人)学校数・本校―八、分校―四
・この頃山林原野官私区分調査願い出る。
・この頃石油ランプ使用し始める。
・新町大火あり。

明治十七年 甲申(キノエサル・・・1884年の記録)
【巣郷本の記録】
この年も作柄は中作であった。(前年記録と同様他に記録なし)

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・日本鉄道開業 ・東和賀・西和賀・稗貫の三郡役所花巻に設置
〔沢内通り〕・戸長役場が整備され、新町戸長役場(新町村・前郷村・大野村太田村・猿橋村・川舟村)ができた、戸長は加藤清章。

・大荒沢鉱山稼業す
・西和賀郡病院費一戸十五銭三厘賦課徴収さる
・西和賀郡内各村議会議員当選者告示される。

明治十八年 乙酉(キノトトリ・・・1885年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は下作。稲の羽虫大いに喰い、田一反歩(991.736平方メートル)当たり玄米にして一斗二升(約18㎏・普通であれば明治の頃は三俵から四俵180㎏から240㎏は収穫できたであろうといわれる)また虫の付かない所では中作であった。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・内閣制度制定・第一次伊藤内閣成立。
〔沢内通り〕・西和賀の貯金及び為替取り扱い局は川舟、新町、川尻、杉名畑、野の宿の五局

・大又鉱山はドイツのオットライメルス財閥と合資会社をつくり、蒸気機関を使用して操業する。
・各地に公葬地ができはじめる。
・下前より六郷に通ずる新道開始
・金当鉱山(荒銅持主大和百太郎)操業
・西和賀郡病院費増税、県公立郡病院経費補助廃止。

明治十九年 丙戌(ヒノエイヌ・・・1886年の記録)
【巣郷本の記録】
作柄は中作。この年の旧八月二十五日大風吹く。大沢与右エ門の家は吹き飛ばされた。下の沢家一戸、新町一戸、太田一戸、川舟一戸が吹き飛ばされた。
閏月より十一月十五日頃までコレラ病大流行。秋田県にては3500人から3600人程死亡したという。岩手県ではこの年すこしばかり死亡者があった。
西和賀郡湯本村、新町、大野村では十四、五人も死亡。
横手山内では南郷村、筏村、大松川村十二三人も死亡した。
野の宿ではコレラの予防として、人には石炭酸をかけ、着物衣類は室に入れ蒸気でいぶした。食料は一切秋田県からは入らなかった。
田代沢口の北、秋田県との境には夜昼四人ずつの見張り番が立った。大変に迷惑し困った。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・帝国大学創立。・この年東京に電灯がつく。・管内小学校設置及び位置を定める。
〔沢内通り〕・公立西和賀病院閉院となる・西和賀の従来の小学校は、簡易小学校となる。

・この年コレラ流行する。西和賀の死者十四五人、湯本が最も甚だし。横手町鈴木玄碩医師太田に開業60歳。

明治二十年 丁亥(ヒノトイ・・・1887年の記録)
【巣郷本・下幅本・白木野本・草井沢本いずれも明治26年まで記録なし】
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・平和街道(北上市より横手市までの街道、現在国道107号線)開通。
〔沢内通り〕・西和賀郡新町村外五か村戸長役場に新町登記所開庁。

・川尻小学校創立
・この頃湯田に高橋健哉という漢方医がいた。
・子供ののど病はやり多数死亡。(ジフテリアか)
・新町と太田、猿橋と七内川学校統合する。
・太田と七内川の小学校それぞれ分教場となる。若畑分教場改築。
・元西和賀病院財産処分  

明治二十一年 戊子(ツチノエネ・・・1888年の記録)
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・市町村制公布・県内枢要の地九カ所に岩手大林区署派出所を設置(花巻派出所開庁)
〔沢内通り〕・無地内において雪崩のため九名死亡、二人怪我をする。

・黒沢尻警察署川尻分署を新設す。新町は巡査駐在所となる。(明治27年5月川尻警察署となり、明治30年再び分署となる)  
・新町登記所は盛岡治安裁判所新町出張所と改称する。
・湯本大火18軒48棟焼失す。
・猫沢、下の瀬、篭沢鉱山創業
・産米、西和賀郡6241石、作付け反別877町、
・反当収穫7斗4合(105.6㎏)

明治二十二年 己丑(ツチノトウシ・・・1889年の記録)
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・大日本帝国憲法公布
・市町村制施行
・東北本線一関~盛岡間開通
・県立岩手病院廃止

〔沢内通り〕・町村制実施により湯田村は役場を川尻に置き、村長高橋連平。
・新町、大野、前郷、太田、猿橋、川舟の各村は合併して沢内村となり、役場を新町に置く。村長為田文太郎。
・白木野小学校校舎焼失。
・向山松倉翁沢鉱山創業する。
・兎平牧場創立明治21年5月資本2000円、72町6反、牛41頭。
・養蚕戸数414戸、繭産額34貫。

明治二十三年 庚寅(カノエトラ・・・1890年の記録)
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・教育勅語を発する。
・第一回帝国議会開会
・岩手大林区署黒沢尻派出所開庁(東西和賀郡)
・米価暴騰 

〔沢内通り〕・赤石金山、前平銅山創業
・沢内村長為田文太郎、小田島六弥県会議員に当選。
・平和街道の車馬の往来が頻繁であり、悪路のため県議会に改修案が提案されている。
・この年人力車の所有台数29台。川尻6台、越中畑3台、野の宿4台、杉名畑10台、小〆沢6台。
・盛岡治安裁判所新町出張所は花巻区裁判所新町出張所となる。
・沢内村消防組織する。(初代組頭深沢多吉)

明治二十四年 辛卯(カノトウ・・・1891年の記録)
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・東北本線盛岡~青森間開通するる。
・衛生組合(市町村の)準則を定める。

〔沢内通り〕・この頃の主な鉱山  宇根倉、檜沢、下遠平、悪戸沢、エモ倉、大又、真名板沢、下の瀬、篭沢、松倉、向山、翁沢
・沢内村長 為田文太郎
・沢内村衛生組合設置
・猿橋簡易小学校全焼(四月)

明治二十五年 壬辰(ミズノエタツ・・・1892年の記録)
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・新小学校令実施
・岩手県連合教育会結成
・黒沢尻小林区署を開庁(東西和賀郡)

〔沢内通り〕・簡易小学校は尋常小学校となる。(終業年限四年)
・左草尋常小学校設立
・湯田小学校が湯本尋常小学校となる。
・白木野小学校が越中畑尋常小学校となる。
・湯本大火
・湯田村の内次の地区は義務教育を免除された。杉名畑、小繋、本内、草井沢、本屋敷、鷲之巣
・各村学校蓄積金の処分(六か村連合村設置による)
・兎平牧場牛110頭と二倍になる。
・この頃の職人の労賃12~13銭(日給)
・大野清水家年間医療費373銭               

明治二十六年 癸巳(ミズノトミ・・・1893年の記録)
【巣郷本の記録】
 この年までの作柄は平年作であった。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・本県は宮城大林区署の管轄となる。
〔沢内通り〕・沢内小林区署を川尻に開庁。西和賀一円を担当す。初代所長黒木良清。
・村医玄隆沼宮内へ。沢内無医村となる。
・正岡子規が下前を経て湯本に来る。
・中山街道の工事始まる(872円60銭)現在の花巻―大曲線なめとこライン
・沢内村長小田島喜六、収入役加藤貞見
・十一月一日役場、新町小学校に移す。
・授業料規則改正(沢内村)一等8銭、二等6銭、三等4銭、女生徒は半額。
・村会議員12名。
・新町尋常小学校洋風屋根二階校舎新築落成。

明治二十七年 甲午(キノエウマ・・・1894年の記録)
【巣郷本の記録】
戦争にて(日清戦争)多くの人が軍隊にとられた。
旧五月二十五日二三寸(直径が6㎝から9㎝)位の雹が三十分間ばかり降る。麻は三尺(約90㎝)ほど成長したが全滅、皆無となった。再度種蒔く。この年作柄は上作であった。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・日清戦争開戦
〔沢内通り〕・新町小学校に高等科併設さる。
・日清戦争には西和賀から三十人余出征する。
・仙人鉄山が雨宮氏の所有となる。
・沢内村長小田島弓太郎、助役小田島喜六
・村歳入・歳出決算1496円33銭4厘
・沢内村で農事試験場各区に設ける、兎平牧場牛242頭となる。

明治二十八年 乙未(キノトヒツジ・・・1895年の記録)
【巣郷本の記録】
旧七月二十五日大水あり。秋田地方横手町の川尻際は戸数百余戸流され、百人余の人が死亡した。当県地方も大水(洪水)であった。この年の作柄は中作であった。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・日清講和、下関で調印
・市町村清潔法定める
・各町村に農会の設置を促す

〔沢内通り〕・当楽、無地内、槻沢鉱山創業
・この年大洪水、堤防、用水路、橋梁等被害あり。
・沢内村長小田島弓太郎退職、三川末次郎就任、助役小田島喜六書記高橋宮人。
・沢内村人口平民4148人、士族6人、戸数556戸、出生77人、死亡79人。(明治28年事務報告の控、郡長宛)

明治二十九年 丙申(ヒノエサル・・・1896年の記録)
【巣郷本の記録】
新歴八月三十一日朝刻より数回の地震あり。午後五時二十分強震、三十分には至り大激震となり、瞬間に家屋転覆し、山崩れ、田畑の被害甚大。

近隣被害は次の通り。この年の作柄は下の下作。田畑合わせて五歩の出来具合であった。
    野々宿―半壊三戸―余は大破損
    巣 郷―半壊一戸―余は大破損   
    中 村―半壊三戸―余は大破損
殊に越中畑の被害はひどく全壊五戸、焼失一戸、半壊四戸、他の二戸はようやく住居の形を残したのみであった。白木野は全壊一戸、半壊三戸、残りは大破損。細内は全壊二戸、余は大破損。桂子沢、花山は大破損のみ。柳沢は全壊三戸、余は大破損。

物置、台所の損壊はひどく筆紙に尽くしがたいものであった。その夜川尻警察署長及川、小使いと共に出張してくる。九月一日震動昼夜に三十回以上もあり危険であった。九月二日なお震動治まらず二十回以上。九月三日震動前日に同じ。郡衛役場、警察署、日本赤十字岩手支部より医員出張。九月四日震動十回余り。九月五日破損取り調べとして書記官常置員2名、警察部より屋形署長郡衛等より出張。

九月六日震動数回する。九月七日被害者のうち食糧不足の者救助する。取り調べのため郡衛より平沢氏出張す。震動数回あり。九月八日震害視察として、内務書記官太田峯三郎随行一名、郡長太田時敬随行一名出張された。黒沢尻巡査佐々木氏巡回する。なお震動あり。九月九日なお震動。九月十日なお震動。 

九月十一日常置員高橋嘉太郎、鈴木文三郎二氏被害視察として出張。震動あり。九月十二日尚々震動。九月十三日尚々震動。九月十四日真宗大谷派本願寺慰問使細川義安氏来訪せり。外に太田伝了とも。九月十五日警察保安課長小野崎勇平、黒沢尻巡査高橋寿左エ門出張せり。震動あり。

九月十六日より九月十八日まで震動。九月十九日岩手農事講習所教師沖千代氏被害地へ出張。九月二十日より九月三十日まで尚震動す。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・陸羽大地震(真昼大地震)
・三陸津波
・大雨大洪水被害甚大

〔沢内通り〕・中山街道(花巻―川舟―下前―秋田県六郷)開通する。
・陸羽大地震(真昼大地震・震源は真昼山直下・震度6から7といわれる)により西和賀一帯大被害あり、川舟断層(4㎞)できる。
・湯本温泉の湯一時止まり、湯治客続々引き上げる。
・草井沢、笹原沢、篭倉、鷲之巣鉱山創業。
・翁沢鉱山を三菱合資会社買収する。
・地震災害復旧工事予算2965円9銭9厘(沢内村)
・川舟尋常小学校火災
・新町尋常高等小学校高等科生より授業料(月15銭)の規定つくる。

明治三十年 丁酉(ヒノトトリ・・・1897年の記録)
【巣郷本の記録】
田畑の作物の種は無かった。旧八九月頃は白米一升は二十銭、大豆一升は十銭であった。
明治三十年冬至前(冬至は太陽暦では12月22日頃)雪が五六尺(150㎝から180㎝)ばかり降り積もった。冬至八日目から寒(立春前のおよそ30日間。)が終わった二十日まで雪が降らなかった。したがって橇で田の上を行き来できなかった。(堆肥の運搬、山から切り出した蒔の運搬等ができず困った。)

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・岩手大林区署復活
・平和街道災害復旧工事
・県下19郡が13郡に再編成。郡自治始まる。
・法定伝染病8種類となる。

〔沢内通り〕・郡が再編成され東西和賀を合わせて和賀郡とし郡役所を黒沢尻に置く。
・沢内村長三川末次郎、助役小田島喜六
・川舟尋常小学校新築、三十二坪七合五勺。
・沢内村村会議員(十三)
・米沢伊作、小田島六弥郡会議員(沢内村)小田島六弥県会常務委員及び郡参事となる。
・村長を有給村長から名誉職とする。村長三川末次郎(沢内村)
・田に虫がつき、雨が降り田の収穫皆無となる。畑は少々実る。

明治三十一年 戊戌(ツチノエイヌ・・・1898年の記録)
【巣郷本の記録】
二月頃より雪が多く降った。寒さも厳しく、種は八十八夜(太陽暦の五月二日ころ)過ぎ、閏三月十二日過ぎ(太陽暦では五月下旬から六月初旬か)に蒔いた。それから毎日東風(ヤマセ風)で寒く、五十日過ぎて苗は5寸(15㎝)ばかり伸びて田植えを始めた。(七月初旬頃、田植えしたことになる。)

田植えが終わってから毎日暖気が続いて、苗は日増しに成長し、この年稲束一束(刈り取った小束を十で一束とした)で一升二合(約1㎏と700グラム)が収穫できた。 

陸物(畑作)は豆は平年の七割の出来。粟は種無しとなる。藍も種無し。蔬菜は半作。この年旧七月の二十五日大風に吹き荒らされ作物は十分に実らなかった。この年の冬は冬至の時期馬が通行した。(雪が少なかったということか)気候十分に寒し。寒に入って少し暖かくなった。旧十二月二十四日より正月の節となった。(正月の準備を始める節か)。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・第六回衆議院総選挙
・花巻銀行、岩手県農工銀行開業
〔沢内通り〕・沢内村長小田島六弥、助役小田島喜六、収入役加藤清章。沢内村会議員選挙で一級選挙三名(小田島六弥、佐々木新助、泉川熊五郎)二級選挙三名(照井佐次兵衛、米沢伊作、石井栄吉)当選
・村衛生費九十円、内訳痘苗三十円、消毒薬三十円、医雇三十円。
・教職員(沢内村)は訓導三人、准訓導一人、授業雇二人。
・大石銅山(持主大和田百太郎)創業。

明治三十二年 己亥(ツチノトイ・・・1899年の記録)
・年代記の記録無し。
【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・市町村衛生組合規定を定める。

〔沢内通り〕・沢内村長小田島六弥、助役小田島喜六
・小田島六弥郡会議員に当選、郡会議長となる。
・沢内村税賦課等級十三等までとなっている。上位一等石井善次郎(川舟)二等為田文太郎(新町)三等米沢伊作(西猿橋)吉田定吉(北川舟)高橋文蔵(東猿橋)
・郵便局で小包郵便事務開始

明治三十三年 庚子(カノエネ・・・1900年の記録)
【巣郷本の記録】
申の三月十五日(明治29年の申年か)菅原与吉は箱橇にお客様を乗せ、和賀郡岩崎村(藤根村の誤りか)を通る時「後藤野」という所で「狐為し」(「きつねためし」)というものを見た。その有様は木材が多く積まれ、ホニョグイ(稲の穂を干す杭)多く立て、人も見え、消えては又その脇に現れ、そういうことが1時間も見られた。それから消え去った誠に真実である。

この年、米の上かべ(稲株の数)は例年より落ちた。大豆、小豆は上作。粟麦は下作。米一升は新米にして十銭。豆は七銭、小豆六銭。夏は日照りであったが秋になってからの米価は中位であった。雪は大雪。正月節より雪大いに積る。メグリ酒(どぶろく)製造は差し止めとなった。これを隠れて製造した者は二十円より千円以下の罰金となった。清酒のもろみ一升は二十五銭もするので買うこともできないから隠して造る者が多かった。酒税役人は日々探し廻り見つけられる者も多くあった。罰金を二十円から五十円も取られた者もあった。煙草製造も差し止めとなり、是も罰金として十円くらい取られた者が多くあった。

【沢内村史―年表より】
〔国・岩手県史〕・未成年者喫煙禁止法、産業組合法、治安警察法公布。
・和賀産馬組合設立。

〔沢内通り〕・沢内村長小田島六弥、助役小田島喜六。
・小学校授業料一ヶ月七銭、高等科十五銭(沢内村)
・濁酒製造禁止され密造を見つけられ二十円から五十円とられた者あり。
・川尻局電報取り扱い開始。土畑鉱山畑平鉱山発見。
・大野に赤痢発生。

以上で、「沢内年代記」の全ての記録は終っている。途中無記録の年もあった。特に明治になってから、記録の必要性、需要がなくなったためか記録のない年が多かった。 「読解」も不備が多く、更に疑問点、問題点を整理しなければならないと考えています。お読みいただき、励ましてくださった方々に心から感謝申しあげます。ありがとうございました。平成23年5月16日  高橋 繁 

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