妻の姉・凱子さんは伊豆で一人住まい。夏に愛犬チロを連れて二泊したことがある。その夜、ガラス箱に納められた人形が気になって、なかなか寝つかれなかった。何となく不気味は感じを与える。朝になって「人形が気になって眠れなかった」といったら「北の伯父さんから貰ったのよ」と姉は言った。
北一輝・・・波乱の生涯を送った人である。佐渡島で生まれ、明治三十九年(1906)に処女作『国体論及び純正社会主義』を発表、その後、宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。この経験を『支那革命外史』として出版している。
大正八年(1919)に書いた『日本改造法案大綱』は昭和維新を唱えた二・二六事件の青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと言われている。二・二六事件の理論的首謀者とされ、愛弟子の西田税とともに処刑された。
かつては右翼思想家として評価されることが多かったが、『国体論及び純正社会主義』は社会主義者の河上肇や福田徳三に賞賛されていた。『日本改造法案大綱』はクーデターと憲法停止が特色と見られているが、それはあくまで過渡的なものであり、強権による改革の後には、社会民主主義的な政体の導入を想定していた。こういった点は戦後のアメリカによる日本占領政策と共通する。このように北は単純な国粋主義者とは括れない側面をもっている。また、政治家の岸信介は、北の「国体論」などから強い影響を受けていたという。<ウイキペデイアを参照>
長女の凱子さんや次女の妻・恵子を産んだ母・ムツは、北一輝の従妹であった。佐渡から上京して北宅の台所を一人で切り回している。その後、ムツが結婚して長女の凱子さんが生まれた時に人形がお祝いで北一輝から贈られたという。
人形から不気味なものを感じたのは、二・二六事件で銃殺された北一輝の怨念がこもっているからではないか。処刑された青年将校たちは「天皇陛下万歳!」を叫んで銃殺されている。だが北一輝は一言も発せずに銃弾に倒れたという。